父母と妻の鎮魂の旅
第7次総聯同胞故郷訪問団に参加して 梁相鎮
ソウル市内は大阪、東京以上の交通ラッシュで、高級ホテル、ウォーカヒル・シェラトンに着いた時は、旅の疲れ以上にグッタリとしてしまった。 到着した日に済州島から出迎えに出て来た従弟(いとこ)と翌9日、今度は、金浦空港から済州島に飛び立った。飛行機から漢拏山が見えるか目を凝らしたが、やはり黄砂のため見えなかった。 なぜ、漢拏山にこだわるかというと、南朝鮮で最高峰という山であるというのも1つ。しかし、それよりももっと大きいのは、42年、夏休みに済州島に行った時、毎朝のように漢拏山の厳かな山容を眺めて以来、その姿が何度も夢に現れて、もう1度この目で見たいという切ない思いが胸の奥に沈殿していたのだった。
済州空港から済州島横断道路で南下する途中に遥か彼方の漢拏山が霞んで見えた時は、「あっ、あれだ」と感慨深い気持ちもなぜか、半減していた。 従弟の家では村の宗氏一族と持ってきた共和国の人参酒を酌み交わしながら親戚一同の消息や暮らしぶりを尋ねあった。なぜ「韓国語」が達者なのか問われて子供たちは皆、ウリハッキョで勉強している、朝鮮人が自分の国の言葉ができないというのは、恥ずかしいことだと力説する場面もあった。一族の親ぼくはもちろん、先祖の墓の共同管理、特に年2回の墓の草刈り作業に100余人も集まると聞いて驚かされた。北南和解の流れも変わることのない歴史の現実として受け止めていることに私は改めて民族統一への思いを強めた。 10日、従弟の家で準備してくれた供え物を持って省墓(墓参り)に出かけた。漢拏山の麓に散在している三代祖先と叔父たち、妻の父母の墓など計16基を乗用車で1日かけて回った。
土饅頭の墓は、皆よく手入れをしていて保存状態もよかった。父親が日本で屑物商を営みなくした土地を買い戻し、先祖の墓を整備した苦労を思った。誰よりも故郷訪問を願っていた父だったが、総聯の活動家だった私たち兄弟の顔を立てて、日本で亡くなったことを思うと涙が自然と流れるのを止めることができなかった。 この度の故郷訪問は、父母と妻の鎮魂の旅でもあったが、幼い時に別れた叔母や母方の従姉と会うことと、何はともあれ漢拏山に登りたかったのだ。 漢拏山頂上の白鹿潭に行くのには、第1(東側)横断道路の坂城岳休憩所から往復8〜10時間コースがあるだけ。第2(西側)横断道路の霊室からの往復3〜4時間コースがあるが、頂上にある白鹿潭までは崩落が激しくて通行禁止となっていた。それで頂上手前までの霊室コースで登ることにした。 11日、甥の案内でW杯サッカー場を横目に見ながら、第2横断道路を乗用車と徒歩で登った。道は石段や枕木のような木材でよく整備されて、所々に休憩所もあって私のような老人も元気に登って行けた。このコースは霊室奇岩コースと言われて漢拏山の火山活動の名残か柱状列岩や金剛山の万物相を見るような奇岩など展望できる疲れを知らない遊覧コースであった。道を登りつめた先は、平坦な台地で鹿がのんびりと草をはむ草原で、5月初旬になると全山チョルチュク(くろふねつつじ)の真っ赤な花で彩られ、各地からの新婚旅行や観光客で賑わうとのことであった。 漢拏山西側、大岩壁の麓に沸き出るノルセム(鹿の泉)の清洌な水で喉の渇きをいやして15分ほどでウイセオルム(標高1700メートル)コース終点に到着した。 さすが高山、雪がチラチラ、手足が冷たくなったので、温かいものが欲しくなり、山小屋でユッケラーメンを買って、キムバップ(のり巻き)とキムチで昼食をとった。偶然居合わせた釜山から修学旅行で来た高校生たちにも食べないかと声をかけると、これを喜んで食べてくれた。こんなことも日本では味わえない面白みであった。 冬には腰まで積もる雪をかきわけて登るという登山路を「ハルバンも山に登るのか」と冷やかされながら無事に霊室五百羅漢休憩所に到着した。 頂上には、登れなかったがそれでも望みがかなえられた喜びでいっぱいだった。その後、叔母たちが設けてくれた西帰浦での歓迎宴では山の話に花が咲いた。この席でごちそうになった焼酎「漢拏山」とチャリ(雀鯛)フェは、何十年間の隔たりを感じさせない昔懐かしい絶妙な味だった。 祖国統一が実現した歴史的瞬間に、今度こそ霞に煙らない美しい漢拏山をもう1度見てみたいと心から念じて、故郷を後にした。(朝鮮人強制連行兵庫調査団事務局長) |