ウリ民族の姓氏−その由来と現在(60)
新井白石と酒酌み交わした嚴漢重
種類と由来(47)
朴春日
池氏は稀姓の上位にあって、81の本貫を持つ。
代表的な本貫は忠州で、始祖は池宗海と伝えられ、ここから、丹陽・広州・開城・驪州・坡州・楊州・水原を本貫とする池氏が生まれたという。 記録に初めて登場する池氏は、後百済王・甄萱(キョンフォン)の娘婿で、武州の城主となった池萱である。 つづく高麗時代、歴史に名を残した池氏は多いが、その筆頭はやはり池勇奇(忠州)であろう。 彼は恭愍王時代、文官として功臣称号を授けられ、外敵撃退の戦いでも陣頭に立ち、名将と讃えられた。そして李成桂の政変にも協力し、功臣とみなされた。 しかし彼は、李成桂の王氏抹殺策動に反対したため、流配されたのち客死した。その後孫・池汝海は女真族撃退の激戦で倒れている。 また池龍寿は紅頭賊と元の侵略軍撃退で勇名をはせ、池継漼は李朝の忠臣として、池浄と池徳海は気骨ある武人として、さらに丹陽池氏の池允輔と池夢句は孝子として世に知られている。 つぎに嚴氏である。 嚴氏は著姓の後半に位置し、60の本貫を数える。主な本貫と始祖は、寧越・嚴光、尚州・嚴幹で、ほかに河陰・広州・漢陽・坡平などの本貫が知られている。 寧越の嚴光は高麗の高官(正二品)、尚州の嚴幹は博士で、「高麗史」は太祖13(930)年、嚴式が天安都督府(忠清道)の副使になったと記す。 寧越嚴氏の嚴守安は、武臣政権打倒で功があり、平壌の長官から、中央の護衛軍統括に任じられている。 嚴興道は義の人であった。彼が寧越の官吏であったとき、李朝第6代の幼君・端宗が叔父・首陽大君に王座を奪われ、当地へ流されて毒殺される事件が起こった。 このとき後難を恐れた人々は、誰一人その遺体に近づこうとしなかったが、嚴興道は家族や親せきの反対をふりきり、端宗の屍を棺に入れて手厚く葬った。 そして彼は息子の好賢をつれて寧越を逃れ、やがて他郷で世を去ったが、第18代・顕宗のとき、右議政の宋時烈がその経緯を知り、好賢を官吏に登用した。 さらに第21代英祖は、嚴興道の住んだ村を表彰し、彼に工曹参判を追贈して祭文を下賜している。 李朝後半、嚴叔は博学の、嚴楫は清貧に徹した宰相として人望があり、嚴晃は武官として活躍した。 対日外交では、第2次朝鮮通信使の写字官・嚴大仁が、また第8次通信使の書記・嚴漢重が嚴漢佑、嚴廷輝らと訪日している。 第8次(1711年)のとき、使節幹部は雪降る江戸で、新井白石持参の酒を酌み交わし筆談で交歓した。むろん嚴漢重も同席。白石は朝鮮の焼酎で酩酊し、楽しい雪見酒になったようである。 つぎは康氏と周氏の予定。 (パク・チュンイル、歴史評論家) |