「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―(24)朴鐘鳴

朝鮮耽羅の鰒と伊勢志摩

東海は朝鮮と日本の内湖


海と朝鮮-1

 海は気候の変動の影響を強く受けるという特質があるが、和いだ日を慎重に見極めて航行すれば、これほど快適なことはないと言ってよい。

 朝鮮人と日本は、歴史的関係は言うまでもなく、地理的にも非常に近いということは地図を見ればすぐ納得できる。特に、視点を変えて、朝鮮から日本を見る 南北を逆に見る―とその感がひとしお強い。

 それ故、朝鮮が釜山―対馬―壱岐―北九州・山口を主とした、また東海を横断した航路を通じて、古代日本に多くの影響を与えたことは周知のことである。同時に、日本からも朝鮮南部を中心に「日本系遺物」をそれなりに残している。例えば、紀元前後の中広銅矛・銅戈や、3世紀の広形銅矛、西新式土器(福岡県中心に分布する)など、4世紀後半の石釧(くしろ)や土師器(はじき)、そして5世紀の筒形銅器・小型仿製鏡(ほうせいきょう)・円筒埴輪、直弧文をあしらった鹿角製刀装具、滑石製子持勾玉…等々である。

 もちろん、これらがすべて「倭人」の手になるとは限らないが、「倭人」の製作やまたその介在を前提としなければならない。

 つまり、快晴の日には釜山から対馬の北部がはっきり見える程狭く、その間の往来はさほど難事ではなかったのである。

 驚くような発見もある。

 「志摩(しま)国英虞(あご)郡名錐(なきり)郷〔大伴部国万呂戸口日部得嶋(とくしま)御調 耽羅鰒(たんらあわび)6斤 天平17年9□□□〕」(平城宮出土木簡:木簡番号344号)。

 分かりやすく書くと、今の「三重県志摩郡大王町波切に居住する大伴部国万呂の戸口で、同じ部(大伴部)の得嶋が貢上する調、耽羅(済州島)の鰒6斤。天平17(745)年9月□□」となる。済州島の鰒を貢上したということである。

 「延喜式」(主計寮式)に、肥後国(熊本県)は耽羅鰒39斤、豊後国(大分県)は18斤を調として貢進していた、とある。

 してみると、耽羅が現在の済州と改称するのは高麗時代の1295年であるから、8世紀に、三重県や、熊本・大分県の人々―漁民であろう―と済州島の人々との間にはかなりの交流があったことがこれらで確認される。

 また、藤原広嗣が天平12(740)年11月初、叛乱に失敗して斬刑に処せられたが、捕らえられた広嗣の従者たちの言によれば、船で東風に乗って行くこと4日間で「嶋を見る。船上の人云う、是耽羅嶋なりと。時に東風猶扇(なおふき)て、船海中に留まって肯て進み行かず。漂蕩(ただよう)すること巳に1日1夜を経て、西風卆(にわ)かに起りて更に船を吹き還し」てしまったので、結局捕われてしまった、とある。

 これも済州島についての知見が相当あるということが前提となろう。

 「斉しく絶影島に泊る。是日、天光水態、浄碧万頃なり。遥か馬島(対馬のこと)の諸山を望むに、歴々と眼に盈つ」と書いたのは、時代は下るが、1719年の朝鮮通信使製述官であった申維翰である。釜山の絶影島から「暦々と」見えた対馬を望んでの感慨であった。

 海路というものは、時として、思いがけない程近かったりするのである。

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