生涯現役

梁義憲さん(86)

53年ぶりに済州道の海へ


 「故郷の海や幼い頃遊んだ路地裏はどうなっただろうか」。大阪に暮らす元海女、梁義憲さん(86)が、このほど53年ぶりに帰郷した。第7次総聯同胞故郷訪問団に参加、長男の金チンフェンさん(71)と共に、9日、夢にまで見た済州道に降り立った。

9日、53年ぶりに故郷・済州道の土を踏んだ梁義憲ハルモニと長男の金チンフェンさん

 梁さんにとって48年の4.3事件直後、日本に旅だった夫と長男の後を追って、その2年後に渡日して以来の懐かしい故郷。親せきたちから花束を受け取りながら「膝の痛さも忘れる位にうれしい」と満面の笑顔を浮かべ、「もう少し若かったら懐かしい海に潜ってみせるのに」と笑わせた。

 梁さんは祖国の統一のために献身しながら、94年、志半ばに倒れた夫の墓に「希求統一、望郷漢拏、断腸落涙」と書かれた碑を立てた。今回の帰郷は、亡き夫と自身の統一への志、望郷の念をかなえるものだった。「6.15共同宣言の恵みによって懐かしい故郷の土を踏むことができた。金正日総書記と金大中大統領に心からの感謝を捧げたい」と梁さんは熱い思いを吐露した。

 その梁さんの半生を映した映画「シンセタリョン―ある在日朝鮮人海女の半生」(49分)が、1月、完成した。監督は原村政樹さん(45)。このほど梁さんの帰郷にも同行した。

 映画には梁さんの35年前を記録した白黒の16ミリ映画フィルムが活用されている。朝鮮通信使の研究者、辛基秀さんがカメラマンの金性鶴さんとともに当時、梁さんに2年間密着して撮影したもので、在日1世の女性の過酷な労働と植民地支配と祖国の分断でほんろうされた家族の歴史を伝える貴重な映像だ。

昔潜水した三重県尾鷲市の海で思い出を語るハルモニ(映画「シンセタリョン」から)

 亡き夫は朝鮮学校設立のために奔走し、ほとんど無収入。映画では「アカ仕事でいっさい家にお金を入れなかったよ」と夫を語るシーンがある。6人の子供を抱えた梁さんは家計を1人で支えるため、働き続けた。毎年、3月から10月まで家族と離れ、鹿児島から対馬、四国、三重、静岡、と全国の海に約40年間も潜り続けた。エアポンプを口にくわえ、水深50メートル、時には100メートルまで潜った。体力の限界まで海底のアワビやサザエ、海藻類を探す日々、たとえ、潜水病に倒れて意識不明になっても、翌日には海に潜った。1日の稼ぎは2〜3万円、多い時は5万円にもなったが、牛乳1杯飲むこともせず、大阪の家族に送金する梁さん。

 自分の心の調べに乗せて、カメラの前で淡々と話し続ける梁さんの味のある一人語りは、それ自体が優れた文学作品のようで、観る人の心を引きつけてやまない。

海女生活で家族を養っていたハルモニ(35年前の映画フィルムから)

 たとえ1円のお金を家に入れなくても、在日同胞と民族のために献身する夫を心から愛し、支え、子供たちにはそんな父を尊敬するよう無言のうちに教えた梁さんの姿が胸を打つ。

 朝鮮へと帰国する4男との別れの日、涙がとめどなく流れる梁さんの顔。対照的に別離の悲しみを顔には出さず、息子と手をつないで黙々と歩く父の姿を映画は映し出す。父と母のわが子への愛の深さがしのばれて、観る人の心を涙で満たす、印象的な場面である。母は平壌に暮らすわが子へ援助するため、70歳近くまで海に潜り続けた。平壌の子供や孫たちが喜ぶ贈り物を持ってこれまで、18回も祖国訪問した梁さん。

 自らの半生をカメラに向かって語り続ける梁さんだが、語ることで心がいやされたのだろうか、その表情は語るほどに柔和になり、笑顔がはじける。貧しさのために教育も受けられず、字も読めない梁さんだが、海に潜って、子供たちを立派に育て上げ、末っ子は朝鮮大学校の教員になった。

 植民地、分断、家族の南・北・日本への離散、20世紀に朝鮮民族が体験したあらゆる受難を一身に背負いながら、笑顔を絶やすことなくドッシリと生きる不屈の物語。朝鮮女性の、おおらかな女の一生がフィルムいっぱいにあふれ、泣き笑いの熱い涙が私たちの体を満たしてやまない。(粉)

 映画の問い合わせ=桜映画社(TEL 03・3478・6110)

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