春・夏・秋・冬

 社会欄に不定期連載している「コリアンとして生きる」について、読者からたびたび感想が送られてくる。民族学校に通う機会はなかったものの高校、大学で民族に触れ芽生え、ごく普通に民族の一員として生きていきたいという素朴ながらも、反面、必死な思いが込められた文章に、自分のいきざまを重ね合わせてしまう、という内容のものが多い

▼日本学校出身の筆者も、彼らの文章を読みながら必然的に、自分のいきざまを重ね合わせてしまう。文章にすれば通りは良いが、実体験はそんなに生易しいものではない。差別にみちた日常生活、そして日本名を使いながらも実は朝鮮人というかっ藤…

▼この春、高校まで民族学校に通い、専門学校を卒業して念願の職場に就職できた友人の娘さんがこんなことを話していた。窓口にお父さんとやってきた子供が、その娘さんの胸につけられている「李○○」という名札を見て、「お姉さん、珍しい名前だね。でもかわいいよ」

▼帰り際にその子がまたやってきて「お姉さん、お父さんがお姉さんのこと朝鮮人だっていうの。本当?」。その問いに一瞬、とまどったものの、「そうだよ、お父さんのいう通りよ」と答えると、「そうなの、ふーん」と不思議そうな表情を浮かべたという

▼朝鮮人として当たり前に生きてきた彼女にとって、朝鮮人であることは日常的なことなのだが、その子の父親が何を思って「朝鮮人」だといったのか、非常に気になったという。何の感情もなかったのかどうか。そういうことを考えさせてしまうのが日本社会なのだ。(彦)

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