ウリ民族の姓氏−その由来と現在(56)

「李朝実録」守りぬいた孫弘禄

種類と由来(43)

朴春日


 孫氏は著姓の後半に位置し、118の本貫を持つ歴史の古い氏族である。

 主な本貫と始祖は、慶州・孫順、密陽・孫淑才、平海・孫仁亮、求礼・孫正澤、扶寧・孫順祖、羅州・孫光裕、一直・孫凝(ソン・ウン)、安峡・孫冠で、慶州の孫順以外は高麗の文・武官である。

 孫氏のルーツは古く、「三国史記」は古朝鮮の遺民が南下し、慶州地方に6カ村(部)をつくったという。そして新羅・儒理(ユリ)王が彼らに賜姓を行い、牟梁(モリャン)村の人々に孫姓を授けたと伝える。

 慶州孫氏の族譜は興味深い。始祖の孫順は牟梁村の貧民で、わが子が祖母のご飯を奪うのを見て、「子供はまた出来るが、母は2人といない」と妻にいい、その子を山中へ埋めようとすると、不思議にも石鐘が現れた。

 そこで子供と石鐘を背負って家に帰り石鐘を叩くと、その音が王宮に響いた。不審に思った憲徳王は石鐘のわけを知り、「昔、後漢の孝子・郭巨が貧しさゆえに子を埋めると、天から金の贈り物があったそうじゃ」といって孫順に家を与え、毎年50石の米を贈ったという。

 諸記録によると、新羅には神文王のとき、孫文という高官がおり、高句麗では長寿王時代、孫漱(ソン・ス)将軍が活躍し、白巌城の城主は孫代音であった。また百済には孫登という貴族がいた。

 高麗時代に入ると、孫幸、孫迥(ソン・ヒョン)の名が見え、高官・孫碩は内乱で死を遂げているが、孫抃(ソン・ビョン)は高潔な人物として広く知られた。

 李朝時代には、密陽孫氏の3人が歴史に名を残した。まず首陽大君の王位さん奪に抗議し、端宗の復位をめざして、決起の直前に倒された孫叙倫がいる。

 また孫英済は、有名な李退渓の門人で、陶山書院の建立と運営に寄与し、後進の育成に情熱を注いだ。弟子たちの尊崇は深く、密陽の慕礼祠で祭祀をしたという。

 孫弘禄は壬辰倭乱のとき、「朝鮮王朝実録」(李朝実録)を死守した人物である。

 李朝政府は高麗王朝にならい、歴代の王朝実録を編さん・印刷し、内史庫(ソウル)と外史庫(忠州・星州・全州)の4史庫に1部ずつ保管していた。しかし、豊臣侵略軍は各地で殺りく・略奪・放火などの蛮行を重ね、国宝級の文化財を強奪・破壊したばかりか、全州を除く3史庫にも火を放ち「李朝実録」など、貴重な古文書類をすべて焼き払ってしまった。

 そのとき、小早川軍の全州侵攻を察知した孫弘禄は、呉希吉、安義らと全州史庫へ駆けつけ、唯一残った「李朝実録」と古文書類を井邑の内蔵山へ避難させ、次に海州へと移したのである。

 こうして「朝鮮王朝実録」はこんにちに伝わるが、孫弘禄らの死を賭した壮挙を忘れてはならないだろう。次は車氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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