ウリ民族の姓氏−その由来と現在(55)

「忠臣の鑑」愛国烈士・河拱辰

種類と由来(42)

朴春日


 河氏は稀姓の上位にあって、70前後の本貫が知られている。

 ところで、河氏のうち、その本貫と始祖名が伝わるのは、晋州・河拱辰、安陰・河千朝の2氏で、晋州河氏からは河珍、河忠国、河成の一族が枝分かれしている。

 また江華・水原・南陽・仁川・豊徳・喬桐・楊根などの本貫が知られるが、その始祖名は明らかでない。

 さて、河拱辰は「高麗史」列伝に見える愛国烈士。その逸話は契丹の第2次高麗侵略から始まる。

 1010年秋、契丹の聖宗が40万の大軍を率いて侵攻したとき、高麗軍は指揮者・康兆の失策から撤退を強いられ、首都・開京まで明け渡す羽目となった。顕宗王と貴族らは南方へ避難した。

 このとき河拱辰は敵側との談判に出向き、聖宗が執ように「高麗王はどこか?」と迫っても、「江南だ」と答えるだけで、頑として国王の所在を明かさなかった。

 その翌年、彼は副使・高英起と契丹へ乗り込み、侵略軍の完全撤退を要求した。すると聖宗が「よし。その代わり2人を人質にする」と出たので、それに従った。

 こうして彼は燕京(北京)へ、高英起は中京へ移されたが、聖宗は河拱辰の風格と知略にひかれ、貴族の娘を嫁がせて、「余の臣下になれ」と強要した。

 しかし河拱辰は、「われは高麗の臣下なり。2君にまみえず」と拒んだので、怒り狂った聖宗に殺害されてしまった。「忠臣の鑑(かがみ)」といわれるゆえんである。

 彼の後孫・河崙(ハ・リュン)は、李朝初期の功臣として領議政となり、「太祖実録」15巻を編さんした。また河珍の子孫・河演も領議政を務めている。

 晋州河氏が誇る歴史的人物は、「死6臣」の河緯地(ハ・ウィジ)である。

 彼は河成の7代孫で、戦史「歴代兵要」を編さんして高く評価された。そのとき王位を狙う首陽大君・柔(ユ)が昇進を推奨したが、彼は端宗が幼君であるとして固辞した。そして柔が左議政・金宗瑞を殺して領議政となるや、官を投げうって故郷へ帰った。

 こうしてついに柔が甥の端宗を追放し、王座を奪う大事件が起こった。世祖王の出現である。王は強引に河緯地を上京させ、礼曹判書に任命した。しかし彼はその禄米を恥とし、倉を別にして「偽王・首陽大君の禄俸米」と書き、見向きもしなかったという。

 やがて河緯地は、「訓民正音」創製の功労者である朴彭年(パク・ペンニョン)・成三問・李磑(リ・ゲ)と、柳誠源・兪應孚 (ユ・ウンブ)らの同志とともに、端宗の復位と世祖打倒の秘密計画に参加した。

 しかし、それが裏切り者の密告によって発覚。あくまで節を曲げなかった彼ら6臣は、莞爾(かんじ)として刑場の露と消えたのである。次回は孫氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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