生涯現役
金慶子さん(60)
私は私らしい障害児のオモニでいい
「1日1日を大切に生きるんだ」 |
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同胞の中にいるときが一番幸せ!(分会の同胞らともちつきをする慶子さん、左端) | 宝塚のオモニたちと共に学校の通学バス(オモニ号)購入活動を行った慶子さん(2列目、右端) |
人間はこうも強くなれるものか―。
手を降って見送ってくれたオモニ・金慶子さん(60)の言葉一つひとつを噛み締めながら、バスの中で記者はそのことをずっと考えた。 「脳性麻痺言語障害」 長女の権玉粉さん(38)は、障害者手帳1級の「脳性麻痺(まひ)言語障害、坐位不能」という重い障害を負っている。「五体不満足」どころか、首は座らないまま、話すことも一人で食べることすらもできないでいる。目が見えることが唯一の救いだった。 生後11カ月目に風邪が悪化し、40度の高熱が続いた。熱が下がらぬまま、脳にウィルスが入り脳膜炎にかかったことから脳の神経系統がやられた。なんとか一命をとりとめることができたものの、主治医から一生重い障害を負うことになるだろうと「宣告」された。 「自分の運命(パルチャ)を呪った。この子と一緒に死のうかと何度思ったことか」。しかし、夫の権教俊さん(65)は「死ぬならお前一人で死ね」と厳しくしかりつつ、2人で娘を見守っていこうと励ました。 「私が守るしかない。私が私が…」。目の前のわが子の状態に暗く落ち込んでいく気持ちのどこかで、何度もそうささやいた。 それでも、実際に自宅でのつきっきりの介護は人に言い尽くせぬほど、辛くも苦しいものであった。 愚痴をこぼす余裕すらなかった。風邪を引いても、下の子が次々と生まれても休むことすらできなかった。アボジはダンプ1台で生活を支えた。心筋こうそくになった後も走り続けた。 それでも、オモニは娘の生に執着した。「何がなんでも生きるんだ。このまま不幸な子供のままで死なせはしない、一生を自宅で送らせはしない」という一心で介護に励み、また同胞の集う場へよく連れていった。 分会のリーダー的存在 オモニは娘を車椅子に乗せ、下の子の入学・卒業式(前宝塚朝鮮初級学校)や女性同盟・宝塚支部、安倉分会の集い、8.15祖国解放記念日の集いなどに参加した。そのたびに同胞たちは励ましの言葉をかけた。「オモニ、頑張って。苦しいと言ってもいいんだよ」。その言葉は、乾いた砂地に水が染み込むように、オモニの索漠(さくばく)とした心に深く染みた。 「私は私らしい障害児のオモニでいい。こんな子がいるからなにもできないという考えを捨てよう。そう考えると、なんだか前向きなエネルギーが湧いてきた」 分会の会費集金や学校の通学バス購入の「1日100円貯蓄運動」に加わり、娘と共に同胞の家を一件ずつ回った。オモニの努力で賛同者は増え、一昨年6月にバスを購入することができた。「今は分会長として、同胞女性らのリーダ的存在」(黄春伊副分会長、45)。 昨年5月に発足した兵庫・「ムジゲ会」に入り、同胞障害児父母らとの交流を深めている。また同年8月、在日同胞福祉連絡会の第1回総会(長野)に夫、娘と共に参加し、自らの体験を話した。 障害の程度や種類は違っていても、それぞれに悩みや迷いや不安を抱えていて、自分と娘だけが大変ではないことを知った。「一日一日を大切に生きるということは、本当に誰にとっても大切なことだということを、はっきりと知らされたような思いだった」。 三女の政栄さん(33)は言う。「お姉さんを連れて散歩に行くのが恥ずかしかった。そう思った自分自身がとても恥ずかしかった」。7人家族はこれまで一度も旅行に行ったことがない。 しかし、オモニの人生を見て育った下の娘3人と息子は、朝鮮大学校への進学をあきらめ、オモニの力になろうと車の免許を取得し、姉のめんどうをみてきた。次女の永仙さん(35)は、将来オモニが動けなくなった場合、自分が姉の世話をする決心でホームヘルパー2級を取得した。 オモニは言う。「人の痛みに美意識を当てはめてはだめ。なるべくその人の立場になって考え、思いやる心を持たなければならないということを、宝塚の同胞たちから学んだ」。 一緒に話し合ったり遊ぶこともできないが、微笑ましい表情で甥(おい)たちを見る玉粉さん。「最大の願いは先に娘を見送ること」と言ったオモニ。バスの中で、記者は「頑張って!オモニ」と何度もささやいていた。(金英哲記者) |