ウリ民族の姓氏−その由来と現在(51)

李舜臣将軍の従事官、霊光丁氏

種類と由来(38)

朴春日


 わが国の実学を集大成した大学者は?と問えば、若い同胞たちはたぶん、首をひねるであろう。しかし、わが国で初めて起重機を考案した学者といえば、歴史の本で学んだことを思い出すかも知れない。

 彼の姓名は丁若縺iチョン・ヤギョン)。号は茶山(タサン)で、丁茶山の方が覚えやすい。

 1762年、羅州を本貫に生まれた彼は、幼時より非凡な才能を見せ、7歳のとき「小山、大山を覆い隠す/遠近の地、同じからず」という詩をつくって周囲を驚かせたという。

 科挙にも首席合格。政治・経済・文化・歴史など、その博学ぶりを認められて国王の御前講義まで務めた。そして漢江の架橋を設計し、水原城の築城ではわが国初の起重機を考案して、膨大な労力と経費を節約する功労があった。

 しかし彼は醜い「党争」にまきこまれ、国禁の天主教との関わりも攻撃されて18年間、流刑の悲運に苛まれた。そしてその地(全羅南道康津郡)の茶山を号とし、508巻に及ぶ貴重な著作を書き残している。

 その間、丁茶山がこよなく茶を愛し、茶室をつくって「茶翁」とも号し、「東茶記」を書いたことはあまり知られていない。「朝鮮茶道の中興の祖」と評されるゆえんである。享年75歳であった。

 丁氏は高麗中葉、主に武臣として歴史の舞台に登場する。大将軍の丁彦真、武将の丁賛、兵馬使の丁公寿らがそうである。

 こうして丁氏一族は形成され、68の本貫を持つようになるが、主な本貫と始祖は、押海(アプへ)・丁允宗、武霊・丁晋、昌原・丁衍邦(ヨンバン)などで、ほかに開城、広州、驪州、漢陽、羅州、南陽などの本貫が知られている。

 李朝に入ると、歴史に名を残した人物が続出する。

 羅州丁氏の丁玉亨は、国王への諌言を受け持つ官庁・司諌院の長官を務め、権臣たちに追従せず左遷されたりしたが、最後まで節を曲げない正義漢であった。

 彼の子孫である丁応斗、丁好善、丁胤禧(ユンヒ)など、その家門からは多くの宰相が生まれている。

 昌原丁氏で親族である丁応斗、丁春、丁哲、丁麟は、壬辰倭乱のとき、李舜臣将軍の部下として勇猛果敢に戦った。将軍は丁麟に「そちの一族には何と愛国義士が多いことか」と賛嘆したという。

 霊光丁氏の丁景達は、李舜臣将軍の従事官であった。彼は李朝政府が敵側の謀略と味方の元均の中傷を真にうけ、将軍を処刑しようとしたとき、国王の前で将軍の潔白を主張、「もし李舜臣将軍を処刑すれば、わが国も滅ぶでしょう」と諌め、それを阻止している。

 礼山丁氏の丁希泰は名医の声高く、のちに国王の侍医となった。次回は劉氏と孟氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

日本語版TOPページ

 

会談の関連記事