「苦難の行軍」を「自力更生」の力で克服
経済復興の先導役を担う清津市
炉の補修が行われている金策製鉄連合企業所 |
清津バス工場 |
朝鮮最大の製鉄基地である咸鏡北道清津市の金策製鉄連合企業所。「苦難の行軍」の時期、他の地域や企業所同様、越えなければならないハードルは一つや二つではなかった。立ちふさがる試練を乗り越えた金策連合企業所では現在、鉄鋼生産を飛躍的に伸ばすため炉の全面補修に取り組んでいる。清津には、「羅南の烽火」が掲げられた羅南炭鉱機械連合企業所もあり、強盛大国建設に向けた取り組みは清津市全体のものとなっている。
火の消えなかった炉 「現在推進中の補修事業が終われば、生産が飛躍的に伸びることでしょう」。金策製鉄連合企業所のチェ・ヒョンギ支配人(67)は、自信に満ちた表情でこのように話す。同企業所では現在、生産工程で重要な位置を占める焼結炉とコークス炉の全面的な補修が行われている。焼結炉とは、砂鉄や鉱石に高温を加え塊にし鉄生産の原料とするもので、コークス炉とは、石炭を加熱処理し製鉄所の燃料となるコークスを作る炉をいう。 金策企業所の労働者たちはこのコークス炉を「工場の母」と呼ぶ。燃料が解決されることで、企業所内のすべての工程が滞りなく進むからである。そのため燃料となるコークスが不足していた「苦難の行軍」の時期、チェ支配人にとってコークス炉が一番の悩みの種だったのである。コークスの問題はチェ支配人個人の問題ではなく、国全体の経済部門にも多大な影響を及ぼした。鉄鋼生産の滞りはすぐに工業全般に悪影響を与えたのである。 金策製鉄連合企業所にとっての最大の試練は、96年12月に訪れた。コークスが完全に底をついたのだ。コークス炉の中は珪石で作られたレンガが積まれていて、炉内の温度が一定基準に満たない場合、ひびが入り炉自体が使えなくなってしまう。炉を守るため、企業所内の労働者はもちろんすべての清津市民たちが立ち上がった。労働者たちは燃えるものなら家財道具でさえ厭わずに工場に持ってきた。市民らは自分たちが食べられなくても、工場の労働者たちに食糧を支援した。炉の火を保つためのこうした闘いは100日も続いた。 困難に打ち勝った金策製鉄連合企業所は、その後徐々に生産を軌道に乗せつつある。99年には国が金策に巨額の資金を投入しコークスを確保できるようになった。また各工場や企業所でも金策企業所に惜しみない援助を与え、それまで輸入していた珪石のレンガも、今では国産のものを使えるようになった。 「金策が立ち直ったからには、全国の工場や企業所も近いうちに息を吹き返すことでしょう」。着々と進む炉の補修工事を見ながらチェ支配人は微笑んだ。 自力で造った路面電車 清津市内では2000年から路面電車が走るようになった。南清津からポンチョンまでの6キロ、サボンから南清津までの7キロ区間を走っており、今年の10月頃には新たにサボンから清津駅までの8キロが開通する見込みだ。 40万の市民のうち5万人が金策製鉄連合企業所で勤めているため、彼らの通勤を便利にしようと1970年を前後してトロリーバスが市内を走りだした。「でもトロリーバスはタイヤ用のゴムなど他国から資材を輸入しなければならず、整備も定期的にできませんでした。いっぺんに多くの人を乗せることもできず、電気もかなり消費しました」と話すのは清津バス工場のナム・ギョンイル技師長(42)。「そのため、88年7月から路面電車を造るための研究を重ねてきたんです」。90年5月には初の試作車である「青年前衛」号を作り出した。 「苦難の行軍」の時期には資材や電力の問題などで生産はできなかったものの、技術者たちはその間路面電車の性能を高めるための研究を続けた。そして98年から2000年にかけて路面電車を大量生産することに成功したのである。 今では金策の労働者のみならず、市民たちの「足」として大活躍している。金策市に住むキム・インスクハルモニ(71)は、「昔は息子の家に行くのにも一苦労だったけど、路面電車ができてからはとても楽になりましたよ」と話す。清津市は生活面でも徐々に改善されつつある。階段式発電所のおかげで3万世帯の電気は解決し、食糧も一時期より数倍もの量が配給されるようになった。 金策、羅南などを擁する清津市は現在、強盛大国へ向けて意気揚揚と進んでいる。市民たちの表情は一様に明るく、未来への希望に満ち溢れている。「重工業都市・清津の範を示し強盛大国建設で一大転換を成し遂げよう!」。このスローガンを胸に清津の人々は今日も仕事に励んでいる。 |