ウリ民族の姓氏−その由来と現在(50)

名医生んだ林川白氏

種類と由来(37)

朴春日


 白氏は著姓の後半に位置して、157の本貫を持つ歴史の古い氏族である。

 わが国の古文献によると、高句麗には白石という偵探(間者)がいて、彼の大胆かつ敏活な偵察活動は、高句麗軍の勝利に大きく寄与したという。

 また、新羅には白永、白雲という太守がおり、後三国時期には白卓という文人がいたと伝えている。

 百済の白氏は「日本書紀」に登場する。すなわち558年、百済の威徳王は倭国へ寺院建築の技術者たちを派遣したが、その中に鑪盤(ろばん)博士・白昧淳(ペク・メスン)と画工・白加らの名が見える。

 鑪盤とは建物の土台。つまり白昧淳は寺院の基礎工事を、白加は伽藍(がらん)内部の美術を担当し、同僚技術者とともに日本最古の飛鳥寺を建立したのである。

 このように白氏は、すでに三国時代に活躍しているが、彼らが門閥を形づくり、族譜を作成するのは高麗時代に入ってからと見られる。

 主な本貫と始祖を見ると、水原白氏の白揮は高麗の国子監(教育機関)の官吏で、林川白氏の白宇経は宰相を務めたという。

 また稷山(チクサン)白氏の白良臣は正二品の高官で、藍浦(ランポ)白氏の白任至は、農民から宰相になったという特異な経歴を持つ。

 そのほか赤城・白利臣、聞慶・白尚潔、清道・白斯質、海美・白光成、解顔・白湖で、みな文官と武官である。

 李朝時代、白氏一族は多くの忠臣と義士を生んだ。

 隋城(スソン)白氏の白汝順は、壬辰倭乱のとき、老母を背負って避難中、不運にも敵軍に捕らわれ、他の同胞たちと日本へ向かう船に押し込まれた。

 しかし敵兵の隙をついた彼は、飛虎のごとく飛びかかり、その刀を奪って切り倒すと、他の敵兵も次々になぎ倒した。そして併走中の倭船にも乗り移り、刃向かう敵兵を打ち倒して、70余人の同胞を救出したのである。

 丁卯胡乱(チョンミョホラン)、つまり1627年の後金(のちの清)の侵略時には、白元義が300人の砲手を率いて3万の敵軍を掃滅、「飛将軍」と恐れられた。また、その子・白大衍、甥・白大男、白大雄らが奮戦し、壮烈な死を遂げている。

 白氏は名医も生んだ。林川白氏の白光Rは獣医であったが、近隣の住民から急患が出るたびに治療を頼まれ、その病を治して「名医」と評判になった。

 そうして彼は貧富を問わず、死に瀕した人たちを蘇らせたので「神医」と讃えられ、やがて国王の侍医に任じられている。

 また、第4次朝鮮通信使一行に白土立、第9次通信使一行には白興銓という医員が随行し、日本の医者たちとの医学交流に貢献している。

 次回は丁氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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