ウリ民族の姓氏−その由来と現在(48)
鎮川宋氏の始祖は新羅高官
種類と由来(35)
朴春日
宋氏は著姓の中程に位置して、173の本貫を数える大きな氏族である。
主な本貫と始祖は、礪山(リョサン)・宋惟翊(ソン・ユイク)、恩津・宋大原、鎮川・宋舜恭、金海・宋天逢(鳳)、新平・宋可元、延安・宋元錫、瑞山(ソサン)・宋而碩(ソン・ジソク)などである。 族譜によると、宋氏の始祖は宋舜恭(鎮川)が新羅の高官でもっとも古く、そのほかは高麗・李朝時代の官吏と伝えられる。 高麗時代、勇名をはせたのは宋文冑(ソン・ムンチュ)で、彼は守城将として知られた朴犀(パク・ソ)将軍の部下であった。 彼は蒙古の侵略軍を撃退した亀州城の戦闘で、卓越した戦術と戦法を駆使して連戦連勝し、「鬼神」の異名をとったほどである。 また宰相を務めた宋国膽(ソン・クッチョム)や、名弓匠・宋夫介らがいるが、彼らの本貫は定かでない。 李朝時代に入ると、礪山宋氏からは、忠臣として知られた宋侃(ソン・ガン)と、その子孫をはじめ、壬辰倭乱時に祖国に殉じた闘将が続出した。 宋侃の5代孫・宋建は数々の偉勲を立て、咸昌戦闘でも勝利したが、無念の死を遂げた。 東莱府使・宋象賢(ソン・サンヒョン)の壮絶な戦いは、歴史で学んだ人が多いに違いない。 1592年4月、豊臣侵略軍の1番隊700隻・約2万人が釜山城を陥落させ、東莱城へ肉薄した。このとき兵馬使・李珏(リ・カク)が逃亡したため、宋象賢は陣頭に立って奮戦したが多勢に無勢、もはやこれまでと、甲冑の上に朝服を着、楼上に座して動かなかった。 その毅然たる姿に感激した敵将・平成寛は、早く退くようにと勧めたが、宋象賢は拒絶。怒った敵兵が襲いかかった。こうして彼の死を悼んだ平調信は、遺体を棺に入れて埋葬し、墓標まで立てたという。 また宋大立は権慄将軍のもと、義兵将として侵略軍を痛撃し、その弟・希立は李舜臣将軍の指揮下、数多くの海戦で勇名をはせた。そして宋汝悰は、閑山島沖海戦で活躍している。 礪山宋氏はまた、15世紀から18世紀にかけ、宋世琳、宋民古、宋日中らの秀れた書画家を輩出した。なかでも宋日中の筆法は独特で、その草書と隷書(イェソ)はわが国ばかりか、清の康熙帝も秘蔵して自慢したという。 恩津宋氏では、詩文と書芸をよくした宋文欽が有名で、彼の隷書と篆書(チョンソ)は秀逸であった。書芸界では、彼を「近代篆隷の祖」と讃える人が多いと聞く。 そのほか詩人の宋奎斌、歌手の宋弘録、無敵の力持ち「宋将軍」(本名不詳)が広く知られている。 つぎは陳氏と咸氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家) |