生涯現役
韓福順さん(74)
済州島秘伝のキムチ一筋
「お大師さん」の名で親しまれる東京・足立区の西新井大師の近所で、朝鮮漬物店の大きな看板を掲げた「興福商店」を始めて32年になる。 「1週間に90個ほどの白菜と何袋ものニンニク、あみの塩辛、1樽に2500グラムほどの唐辛子、生姜…。20年ほどは1人で、1日も休まず、キムチ漬けの毎日でした」 故郷・済州島で10歳まで暮らした。四季折々の漢拏山の風景もエメラルドブルーの海の色も全部目に焼きついている。韓さんの作るキムチは、外祖母から母へと伝わった秘伝の味である。 「舌が覚えていたのだろうね。見よう見まねで始めて、数えきれないほどの失敗と試行錯誤を繰り返し、やっと母の味に近づけたかも知れない。キムチは薬念も大事だが、塩漬けが決め手。でも何10年やっても、奥が深くて、極みがない」 12歳から働きづめ
10歳で父母と共に玄海灘を渡り、神戸に居を定めてからは、7人姉弟の長女としてひたすら家に尽くした。周りの子供たちが小学校に通うのを尻目に、ゴム靴の下請け工場に通い、ミシンを踏み、靴の下張りに励んだ。 「6時に起きて、7時から深夜12時頃まで働いた。日本が太平洋戦争に突入した頃で、仕事がどんどんきた。私の1日40銭ほどの給金がわが家にとっては大きな収入だった」 3歳下の妹が小学校に上がるようになると、「朝鮮人だとバカにされないように、妹の手を引いてきれいなワンピースを買いに行ったことが昨日のことのように思い出されます」と微笑む。「それでも、みんなと一緒に学校に行きたくて1日中泣いて、オモニを困らせたこともあった」。 やがて、日本の敗戦。「その頃は大阪のゴム靴工場で働いていたけど、大空襲に遭い、もう一面焼け野原。家族と一緒に親せきを頼って別府の郊外の農村に疎開した。闇米2斗を担いで、何時間も歩いて、汽車を乗り継いで、家に戻ったこともあった」。 次々と弟妹が生まれ、身を粉にして働いても暮らしは一向によくならなかった。20歳で、父母の命ずるままに結婚。「意に添わなくても、当時は親の決めたことが絶対。どうしようもなかった」。 結婚してからも忍従の日々を送った。裁断機の前で1日中、ミシンを踏んで、合間に家事をこなした。働いても、働いても、冷や飯しか食べられなかった。そんな頃、実家、婚家、親せきのみんなで上京、今の場所に移った。52年前のこと。 娘が4人生まれた。「また、女か」、「うちの嫁は女腹か」という冷ややかな物言い。悔しくて悔しくて、何度人知れず涙を流したことだろう。祖国への帰国事業が始まるや否や、「孫を1度も抱こうとしなかったしゅうと」と夫が真っ先に、帰国の途についた。両親、姉妹、親せきらも次々と祖国へ。千里馬運動の高い槌音に呼び寄せられて、長女も旅立った。 「ここほどの味はない」 まだ8歳の娘を頭に幼子3人を抱え、途方にくれていた頃、1人の男性と出会って再婚。「念願の男の子」が生まれた。しかし、間もなく夫は脳卒中に倒れ、以来18年間の闘病が続く。家族の暮らしが重くのしかかった。嘆き、悲しむ暇もない。子供たちに民族教育だけは授けたかった。そこで始めたのが、キムチ屋だった。塩にまみれ、唐辛子にまみれて、なりふり構わず、不眠不休でキムチ漬けに没頭した。白菜、高菜、からし菜、きゅうり…。おいしいという評判もうなぎ登りで、どんどん売れていった。今では「興福商店」の名は日本各地に轟き、「北海道、九州、大阪まで宅急便で送っています」と娘の康敬玉さん(49)が語る。 ある日、近所の常連の日本のお客に「ソウルに行って食べてもここほどのキムチはないよ」と声をかけられたのも自慢の1つ。「この辺りの日本の人は、同胞と同じでキムチを株ごと買っていってくれる。ほかではあまり聞かないね」。 日本人の食卓を一変させたキムチ。それをもたらしたのは、韓さんのような朝鮮の女の労苦と知恵の結晶だったのである。(朴日粉記者) |