明らかになった「太平丸」事件

44年7月カムチャッカ半島近海 米軍の攻撃受け沈没

朝鮮人655人が死亡、軍事基地建設に駆り出され
北南朝鮮に生存者、全容解明に拍車

「私のいた楊口郡からは100人が連行され、そのうち16人しか助からなかった」と語る北在住の黄宗洙さん 南在住の被害者、全金★(石のしたに乙)さんは今でも沈没位置を特定できるという

「太平丸」は米軍潜水艦が発射した魚雷で撃沈された


 1944年7月9日、1千人の朝鮮人を乗せた日本軍の徴用船「太平丸」がカムチャッカ半島近海で米軍の攻撃を受け沈没、655人が命を落とした「太平丸」事件。犠牲者は、日本軍の軍事基地建設のため、江原道、黄海道から北海道に強制連行された青年たちだった。このほど北南朝鮮の民間団体、朝鮮人強制連行真相調査団の調査で生存者が北南朝鮮で発見され、彼らの証言によって歴史の闇に埋もれていた事件の全ぼうが明らかになりつつある。昨年、生存者と対面したフォトジャーナリストの伊藤孝司氏(49、三重県在住)に事件の全容について寄稿してもらった。伊藤氏はアジア各国を回り、日本の植民地支配による強制連行、性奴隷被害者を撮り続けている。(写真はいずれも伊藤氏の提供)

小樽で強制労働

 昨年10月12日、平壌市の高麗ホテルで、私は以前から捜していた人と対面することができた。「太平丸」事件の被害者だ。大柄でがっちりとした体格のその人は、黄宗洙(75、平壌市在住)と名乗った。

 「太平丸」事件とは1944年7月9日、朝鮮人軍属約1千人を乗せた旧日本陸軍の徴用船「太平丸」がカムチャッカ半島近海で米軍潜水艦の攻撃を受けて沈没した事件を指す。船に乗っていた朝鮮人は日本の植民地時代、江原道、黄海道から北海道・小樽に強制連行された青年たち。日本軍の軍事基地建設のため、千島列島に向かっていた。

 45年8月、舞鶴湾で爆沈した「浮島丸」事件については日本でもかなり知られるようになったが、「太平丸」事件についてはまったく知られていない。

 黄さんは朝鮮民主主義人民共和国で初めて確認された事件の生存者である。黄さんの記憶は非常にしっかりしており、身ぶり手ぶりを加えながら長時間にかけて証言してくれた。

 黄さんから詳しい体験を聞いて帰国した私は、すでに存在を確認していた韓国在住の生存者、全金★(石のしたに乙)さんの話を聞くために韓国へ行った。つまり、南北両方の生存者と対面することができたのだ。

 また、元軍人の日本人生存者からも話を聞き、事件に関連する多くの文献を入手することで、歴史の闇に沈みつつあった「太平丸」事件の全容を知ることができた。黄さんの証言を中心に事件をたどる。

江原道、黄海道から

 1926年12月12日、江原道楊口郡で生まれた黄さんは、18歳だった44年5月15日に日本軍からの令状を受けとった。逃げることも考えたが「逃亡したら父母に暴行を加える」と脅され、仕方なく応じたという。江原道からは淮陽、楊口、麟蹄、原州、横城の各郡から100人ずつの500人がこの時に連行された。また黄海道からも同じように集められ、合わせて1千人が釜山を経由して小樽へ送られた。

 小樽に着いた朝鮮人たちは、山間部で基地建設に従事させられた。そうした日々が続いていた時、「樺太(現在のサハリン)へ建設作業に行く」と言われ、7月4日、彼らは大洋海運所属の「太平丸」(6284トン)に乗せられた。

 しかし、船は樺太に向かおうとしているのではなかった。「太平丸」が目指したのはカムチャッカ半島から2番目のパラムシル島だった。この島やシュムシュ島などの北千島は、サケ・マスを中心とした北洋漁業の大基地。また米国領アリューシャン列島とも近い。

 日本軍は42年6月、アリューシャン列島のアッツ島を占領したが翌年5月、米軍の猛攻で全滅。米軍はアッツ島に飛行場を新設し、43年7月に北千島への最初の空襲を行った。

 そこで日本は北千島を本土防衛のための要衝と位置付け、軍事基地の建設に多くの朝鮮人を労働者として駆り出したのだった。

救助後も強制労働

 「太平丸」が小樽を出港したのは44年7月5日午後2時。ほかの輸送船3隻や護衛船3隻とで船団を組んだ。小樽と北千島間の輸送は早くて5日、遅くて10日間以上かかる。その途中で米潜水艦の攻撃を受けたケースも多く、同年3月の「日連丸」の沈没では1934人が死亡している。

 北千島は夏でも水温4度という酷寒の海。軍曹として乗船した今村栄三(15年生まれ)氏は、「小樽を出た時から九分九厘やられると思っていた」と語る。撃沈されるのを覚悟で船は出港したのだった。

 米軍が放った2発の魚雷が命中した時間は9日午前10時前後だった。黄さんは攻撃を受けた時の様子を次のように語る。

 「船倉には砲弾・火薬・軍事物資が積まれ、その片隅に私たちは押し込まれていた。外で『グゥーン』という鈍い音がし、汽笛が2回鳴った。『ドーン、ドーン』という大きな音とともに、私たちの目の前を火柱が通り過ぎて炸裂した」

 「『もうこれでおしまいだ』と思った。上に見える出口は、脱出しようとする人でいっぱいで、とてもそこからは出られない。海水はどんどん入って来た。その時、板が積んである所に穴があいていたのを思い出し、外へ抜け出すことができた。甲板上には頭が割れた人や血で染まっている人、助かりたい一心でワイヤーを上って行く人がいた」

 船が魚雷を受けてから完全に沈むまでは40分ほどだった。「戦時船舶史」によると、死亡したのは兵員902人と船員54人。乗船した約半数の人が死んだとされる。そのうちの朝鮮人死者数については、「655柱」という墓標を黄さんが見ており、全金★(石のしたに乙)さんも約半数が死んだと証言している。

日朝国交の実現こそ

 黄さんは幸運にも救助され、パラムシル島へ上陸した。そこでは、先に連行されていた慶尚道、忠清道、全羅道からの多くの朝鮮人たちが飛行場建設をしていた。

 黄さんたちはシュムシュ島で、砕石や砂利採取の作業を強いられた。朝鮮人10人につき1人の軍人が監視につき、過酷な労働にかかわらず、わずかな量の食事しか与えられなかった。朝鮮人軍属たちに約束されていた月給150円は、最初の2カ月しか支給されなかったという。

 韓国在住生存者の全さんは45年の旧正月の数日前に故郷へ戻ったが、北千島で体を痛めたため、それからは定職に就くことができなかった。

 44年12月15日頃に釜山へ着いた黄さんは、新暦の正月を故郷の江原道で迎えた。そこで2年ほど暮らしてから、地方の党機関で働き始めた。日本から受けた過酷な体験は、家庭や職場でたびたび話した。それを聞いた人たちは「2度と植民地奴隷になってはならない」と言っていたという。

 黄さんは、日本によって殺された数多くの同胞の無念さを強い口調で語った。

 「日本によって連行された時のことを思うと、今でも血涙が出て憤りを抑えられません。私たちに辛い体験をさせた日本政府に謝罪と補償をするよう強く要求します」

 昨年8月、日本政府は朝鮮からの代表団の入国を6月に続いて拒否。日本軍により性奴隷にされた女性(日本軍「慰安婦」)や強制連行被害者たちが日本で体験を語ろうとしたのだったが、加害国が被害者たちの入国を拒否するという暴挙を働いた。

 そして昨年12月には国籍不明船を海上保安庁が銃撃して沈没させることで朝鮮への警戒心をあおり、「有事法制」整備の口実とした。日本政府は「反テロ」を標ぼうして戦争を正当化する米国に追随し、戦争国家への道を着々と歩んでいる。

 日本政府は今こそ、大局的な視野での外交をおこなうべきだ。その重要な第一歩を日朝国交正常化の実現とすべきである。

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