ウリ民族の姓氏−その由来と現在(46)

盧氏が誇る李朝の名医、盧重禮

種類と由来(33)

朴春日


 盧氏は著姓の後半に位置するが、137の本貫を数えるので、比較的大きな氏族といえよう。

 代表的な本貫と始祖は、光州・盧恕、交河・盧康弼、長淵・盧朝、豊川・盧裕、安康・盧仁景、慶州・盧江漢、安東・盧永吉、谷山・盧重禮、龍城・盧挺、萬頃・盧革、海州・盧世傑、霊光・盧世悛、童城・盧挺だが、もっとも古い氏族は杞渓(キゲ)盧氏と見られる。

 ところで一部の族譜は、唐代の末、盧氏の4人兄弟が新羅へ移り、光州伯・交河伯・長淵伯・豊川伯に任じられ、当地を本貫にしたと伝える。

 しかし、そうした記録は、わが国や中国の史書には見えないので、やはり後世の造作というしかない。

 それよりは交河盧氏の族譜に、始祖の盧康弼(ロ・カンピル)が高麗の建国功臣であり、彼は「元来、杞渓盧氏の人で、のちに章山へ本貫を移し、また慶山へ行ったあと交河へ移った」とある方が注意を引く。

 杞渓は慶州から北へ5里ほど離れた村で、交河盧氏はそこから分かれた氏族だ。また慶州盧氏の始祖・盧江漢は、安康盧氏から分かれた氏族と見られる。

 高麗時代の盧氏は、武官として活躍した人物が多い。たとえば盧戦と盧遉は、1010年末、契丹の聖宗が40万の大軍を率いて侵攻したとき、康兆将軍の指揮のもと勇猛果敢に戦った。

 また盧永禧は、「仲孫将軍とともに三別抄(選抜軍)を率い、蒙古軍の侵略と日本侵攻を阻止し、彼らを駆逐した。さらに上将軍・盧元純は、契丹の残存勢力を掃滅し、盧永淳(杞渓)は国防に尽力している。

 李朝時代に入ると、盧思慎(交河)が法典「経国大典」の編さんに携わり、領議政となって信望を集めた。また盧守慎(光州)は19年の流配中、経典研究で成果を上げ、領議政に昇進して「名臣」と評された。

 盧克弘(光州)は壬辰倭乱のとき、義兵将として火旺山城を死守している。

 盧氏が誇る盧重禮(海州?)は、李朝の名医であり東医学の大家であった。彼は世宗15(1433)年、朝鮮固有の治療予防法を集大成した「郷薬集成方」85巻を朴允徳らと編さんし、1445年には、金循らと朝鮮医学の大百科全書「医方類聚」365巻を編さんした。

 この民族医薬学書の刊行は、許浚による名著「東医宝鑑」の先駆的な役割を果たし、朝鮮医学が世界に誇りうる歴史的業績であった。

 しかし壬辰倭乱のとき、加藤清正らは数々の文化財とこの「医方類聚」を奪い去った。そして1852年に江戸で、喜多村直実がその一部を、1861年には全巻が刊行された。

 日本の医学者は、「古今まれな巨巻、重要な医学書」と称賛したが、その書籍は現在、宮内庁図書寮に保管されている。次回は洪氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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