「江界精神」で困難に打ち勝った慈江道

日々好転する人々の暮らし

多くの市民たちでにぎわうレストラン プクチョン江に建設された中小型発電機

 こんにち、朝鮮では「強盛大国建設の新たな飛躍を遂げよう」というスローガンのもと、各地の工場、企業所で新たな革新が毎日のように生み出されている。社会主義市場の崩壊、相次ぐ自然災害による経済難と食糧難が重なった1990年代の中頃からの「苦難の行軍」。前代未聞の試練の時期を乗り越え、不死鳥のごとくよみがえった朝鮮の底力の源流は慈江道の人々が発揮した「江界精神」から探すことができる。「苦難の行軍」から「楽園への行軍」に移った慈江道はどのように変わったのか。

「苦難の行軍」を乗り越え

 「平壌市民の暮らしに勝るとも劣らないでしょう。私たちはもう『楽園への行軍』をしているんです」。慈江道の人々は最近、口を揃えて得意げにこのように話す。

 面積の80%が山地である慈江道は農業生産高が低く、「苦難の行軍」の時期、国家が食糧を思うように配給できなくなったとき、他のどの地域よりも大きな被害を被った。非常用として備蓄していた食糧を数キロずつ分けて道内にあるすべての工場や企業所に配給したものの幾日も持たなかった。こうした状況下、慈江道では炭化した葦の根を「代用食品」とする一方、さまざまな草の根や木の皮の栄養成分を分析する研究機関まで発足させ、食糧問題解決に奔走していた。

 そんななか、当時江界トラクター工場で技能工として働いていたリ・グァンピル氏(49)は食べるものを求め、妻と2人の子どもを残し農村に住む親せきを頼って平安北道へと向かった。親せきの家で10日ほど世話になったがそれ以上迷惑をかけることはできなかった。親せきにも家族がいた。苦労を分かち合う姿を見てリ氏は自身を恥じた。

 慈江道では食糧難と経済難克服のため、大小様々な河川に中小型発電所の建設を積極的に展開した。リ氏も必要な資材をかき集めながら発電所建設に取り組んだ。その結果、「苦難の行軍」の時期、新設もしくは復旧、整備した中小型発電所は300を超え、道内の工場や企業所はもちろん、農場や住宅にも電気を供給することができるようになった。電力が解決すると、味噌をはじめとする基礎食品や生活用品が徐々に生産されるようになった。

 「まさか自分たちにこんな力があるとは思いませんでした。社会主義とは結局、団結力なんです」とリ氏。「『苦難の行軍』も、今では昔の話ですよ」と微笑んだ。

卵10個と鶏1羽

 「苦難の行軍」の時期に苦労した甲斐あって、慈江道の食糧事情は日々改善の兆しを見せている。そのいい例として江界鶏工場と江界ワイン工場をあげることができる。

 2000年10月に新設された鶏工場は生産工程のすべてをコンピューター制御している現代的な工場。建設当時技術指導に来ていたヨーロッパの技術者たちは、「慈江道の人々はすごい、普通なら3カ月かかる仕事をたったの1カ月で仕上げてしまう。仕事も早いし、情熱もある」と驚きを禁じえなかったという。

 江界鶏工場と市内にもう一つあるフンジュ鶏工場のおかげで、江界市民たちは一人当たり月に卵10個と鶏1羽が支給されるようになった。また、鶏工場で生産される鶏肉を使ったレストランも昨年8月に建設され、1日に1000人あまりの市民たちがレストランを訪れるという。レストランでは江界ワインと共にフライドチキンや焼き鳥などの日替わりメニューも充実しており、市民たちの人気を博している。

 56年に建設されたワイン工場は最近技術革新を行い、もともと美味しいことで有名だった江界ワインをさらにレベルアップさせている。

 「江界に来た人たちはラッキーです。今江界ワインは慈江道でしか飲めないのですから」とレストランのウェイトレスが話すように、江界ワインはまだ首都平壌でも少量しか出回っていない。鶏肉をつまみに江界ワインを楽しむ慈江道の人たち。「江界ワインを飲めるということは慈江道に住む人の『特権』だよ」と誇らしげに話す。

 江界の今日のこのような姿は、「苦難の行軍」の時期からは想像もできない。わずか数年の間に電力難、食糧難を克服して、「強盛大国建設」をスローガンに掲げるに至った江界の今日は、朝鮮の人々の持つ強い精神力と底力を示している。

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