ウリ民族の姓氏−その由来と現在(43)

金幸の功労讃え権氏授ける

種類と由来(30)

朴春日


 権(權)氏は著姓の上位にあって、56の本貫を数える。

 主な本貫は、安東権氏をはじめ、醴泉(レチョン)・開城・広州・驪興(リョフン)・川寧・漢陽・坡平・水原である。

 安東権氏の始祖は権幸であるが、彼はもと慶州金氏の出身で、古昌郡(安東)の有力者であった。その金幸が権氏に改姓したのは、後3国の戦乱後のことである。

 新羅・景哀王4年(927)の秋、後百済王の甄萱(キョンフォン)が数千の騎兵を率いて慶州を急襲した。

 そのとき鮑石亭で酒宴に興じていた景哀王と王妃、貴族や宮女らは、阿鼻叫喚の中で殺害、凌辱され、国庫の財宝もすべて強奪されてしまった。

 新羅の救援要請をうけた王建は、自ら精鋭騎兵5千を率いて出陣し、略奪と蛮行を繰り返す後百済軍を総攻撃した。古昌郡・瓶山の戦いである。

 このとき金幸は村々の長たちを集め、「甄萱の所業は天に背くものだ。われらは王建公に協力し、新羅の恥をそそごう」と訴えた。

 これが口火となり、甄萱支配下の30余県が続々と王建に服属した。大勝利をおさめた王建は、金幸の功労を讃えて権姓を授けたのである。

 こうして生まれた安東権氏から、高麗・李朝時代、歴史に名を残す人材が輩出した。

 学芸の分野では、儒教性理学の権溥(クォン・ブ)、同じく権近、そして権好文らが有名である。とくに権近は、李成桂にくみして批判されはしたが、「陽村集」「霜台別曲」などの著作で祖国の名を高め、後世の評価をうけている。

 祖国防衛の戦いでは、壬辰倭乱のとき、「幸州(ヘンジュ)大勝」をもたらした権慄(クォン・リュル)将軍が有名である。

 1593年2月、豊臣秀吉の侵略軍3万余は、宇喜多秀家・小西行長・加藤清正らに率いられて、漢陽西方の幸州山城を総攻撃した。

 山城では権慄将軍の指揮のもと、国土死守に決起した兵士、老若男女2千余人が銃や弓矢を放ち、岩を転がし、石つぶてを投げ、熱湯を浴びせて猛反撃した。

 このとき、女性たちが石や瓦のかけらをチマに入れて運び、投石戦で大きな戦果を上げたことから、「幸州チマ」という言葉が生まれたという。

 こうして、10倍近い敵軍を撃退した権慄は、のちに領議政(首相)に任じられたが、義兵将・権応銖と権徴も勲功、大であった。

 醴泉権氏の始祖は権進である。この氏族からは、史書「大東韻府群玉」20巻を著わした大学者・権文海が出ている。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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