「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―(21)朴鐘鳴

現代に生かすべき教訓

冷静で現実に基づいた外交こそ


壬辰・丁酉戦争(文禄・慶長の「役」)2

 壬辰・丁酉戦争は貴重な教訓を残した。

 最近語られる朝・日間の「共通の歴史認識」でも必ず確認しておくべき重要な問題の一つは、加害者がいて被害者がいる、ということである。これは価値判断以前の問題である。

 日本での壬辰戦争認識は、特に事実認識が十分であるとは言い難い。また朝鮮が日本の植民地であった約50年の関係についても同じである。つまり壬辰戦争の関係史的認識から教訓を得、植民地支配についてもその認識を深めるということの不可欠性こそが、史実と向い合い、歴史から学ぶということとなるに違いあるまい。

 一方朝鮮は、秀吉の侵略から多くの教訓を主体的に学ぶべきであり、また学ぶべきであった。

 何よりも民族の尊厳性と国の独立を守りぬこうとした民衆の自発的エネルギーが「義兵」となって結集し、侵略軍を撃退する最大の力となったということを確認しながら、次の様な点での教訓を胸に刻みこむべきであろう。

 一、外交は冷静で現実に基づいた情報収集と分析によらねばならない。秀吉の「仮途入明」は即「朝鮮侵略」を意味するものであったから、朝鮮王朝は主体的に防備を強化して対応すべきであった。しかし、当初から実態的には明国への救援要請が主たる外交策で、後には和平交渉の権限まで明国に委ねてしまい、秀吉軍に丁酉戦争――第2次侵略への時間的余裕を与えてしまった。

 一、人材は民族のすぐれた資質の集約的表現であり当該社会の力でもあり、多くの場合、民衆の意志の体現者でもある。ところが、その体現者であり、日本軍に恐れられもしていた水軍の将李舜臣を始め、多くの義兵将の影響力や信望が民衆に集中するのを嫌った政府は、枝葉末節的な軍令違反などの名目で彼らを逮捕、処罰したり、時には死刑に処しもした。これは侵略に抵抗していた民衆の頸を絞めるのと同様な愚行であった。

 一、戦いの最中にあっても、政府の指導者らは、ことあるごとに西人派、東人派と分裂抗争し、不毛の派閥争い(党争)を執拗にくり返した。例えば、戦局の重要な局面にあってさえ、党争によって李舜臣を兵卆に降格してしまい、その結果朝鮮水軍は全滅し、制海権も完全に喪失してしまった。

 一、科学技術の発展・継承は、当該社会の基礎を強固にする。

 戦いの初め、朝鮮は日本の鳥銃(火縄銃)に手古摺りはしたが、やがてそれを改良した銃を作り、また榴弾の一種である飛撃震天雷を始めとする各種火器や亀甲船などを制作・使用することによって侵略に有効に対応した。しかし、戦後、これらの発展はさておくとしても、継承すら十分にはなされず、亀甲船に至っては保存さえまともになされなかった。

 以上は、単に壬辰・丁酉戦争の時期にのみ限定される現象ではなく、現代でもふり返って見るべき史的要請なのではあるまいか。

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