ウリ民族の姓氏−その由来と現在(42)
南から来た官吏で南氏?
種類と由来(29)
朴春日
南怡(ナム・イ)将軍といえば、歴史の教科書で学んだ人が多いであろう。
世宗時代(1418〜50)、弱冠17歳で武科に首席合格。李施愛の反乱鎮圧と女真族の侵犯撃退で勇名をはせ、26歳の若さで兵曹判書(大臣)に抜擢された。 白頭山の岩は剣を磨いて尽くし 彼の有名な漢詩「北征」である。詩中の「未平国」、ここでは「(いまだ)国を平らかにせず」と読み下したが、これは祖国の平安という意味であって、平定ではない。 ところが姦臣・柳子光は、その「未平国」を「いまだ国を平定せず」とゆがめ、「南怡に謀反の恐れあり」と、新王・睿宗(イェジョン)に讒言(ざんげん)した。 加えて柳子光は、南怡が彗星を見て「新しいものが生まれる兆し」と語ったのに噛みつき、韓明★(さんずいに會)らの姦臣と謀って「南怡の反逆は明白だ」と騒ぎ立てた。 このとき王が賢君ならば、南怡の愛国至誠あふれる武勲と他の詩篇から見て、即座にその讒言を退けたであろうが、この暗君、何と姦臣らの陰謀どおり、南怡と康純をはじめ、多くの憂国人士を処刑してしまったのである。これを史上「南怡の獄」という。 さて、その南氏は長い歴史を持ち、本貫は英陽・宜寧・固城・南原など57だが、大もとは1つと伝えられる。 「典古大方」によると、南氏の祖先は南敏であるが、彼は唐の官吏で金忠といい、訪日の途中、船が難破して新羅の地に着いたという。また南氏の族譜には、金忠が南から来たので南姓を授けられた、とある。 むろん、金忠唐人説は後世の付会。彼は高麗時代、寧海(慶北)の丑山島から安東へ出たと見られる。 その南敏の後孫・南鎮勇に息子がいて、長男・南洪甫は英陽南氏の中興の始祖、次男・君甫は宜寧南氏の、3男・匡甫(クワンポ)は固城南氏の始祖となった。南原何氏の始祖は南仲龍である。 宜寧南氏には、信義に徹した烈士が多い。南怡将軍もその1人だが、高麗末の忠臣・南乙珍は李朝が登場すると山へこもり、太祖の勧誘にも応じなかった。彼の死後、人々はその洞窟を「南仙窟」と呼んで祀ったという。 南孝温は「生六臣」の1人だ。彼は世祖の王位さん奪に抗して処刑された「死六臣」の忠誠に感銘し、王に上書したが無視され官職を辞した。そして親友・金時習らの忠告も聞かず、禁制の「死六臣」伝を書いている。 また、女真族を撃退して戦死した南以興、数学・物理系統の碩学である南龍翼、同じく第10次の副使・南泰耆(ナム・テキ)も歴史に名を残している。 つぎは柳氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家) |