ウリ民族の姓氏−その由来と現在(39)

祖国防衛の闘将多い清州韓氏

種類と由来(26)

朴春日


 韓氏は著姓の上位に位置し、131の本貫を持つ氏族だが、その由来記は古朝鮮末期にさかのぼる。

 わが国の族譜に関する「氏族源流」によると、紀元前194年頃、古朝鮮の将帥であった満は準王に背き、その王権を奪った。そこで準王は一族を引き連れ、南の馬韓(マハン)へ移住して韓氏を名乗ったという。

 その後、歳月が流れ、馬韓は新羅に併呑された。そこで太子の友平は高句麗へ行って瑠璃(リュリ)王の臣下となり、北原鮮于(ソヌ)氏の始祖となった。

 また次男の友誠は百済の温祚(オンジョ)王の臣下になり、奇氏の始祖に、そして3男の友諒は新羅で脱解(タルゲ)王の臣下となり、上党韓氏の始祖になったと伝えられる。

 韓氏の代表的な一族は清州韓氏である。始祖は高麗の大功臣である韓蘭(ハン・ラン)で、その曾孫・韓侯抵が平山韓氏の始祖となった。そして、この2氏族から楊州・漢陽・湍州(タンジュ)・鴻山・安辺・嘉州・谷山などを本貫とする韓氏が生まれたのである。

 清州韓氏には、祖国防衛で勇名をはせた闘将や著名な学者・文人が多い。中でも馬術と弓術の名手であった韓春立は、女真族(のちの清)が侵入したとき、一人で100余の敵を倒し、壮烈な死を遂げている。

 また壬辰倭乱のとき、右議政まで務めた韓応寅は兵糧を保障しただけでなく、明国との団結のため4回も北京を訪ねるなど、戦争勝利に大きく貢献した。

 韓応聖も歴史に名を留めた。彼は義兵将・趙憲が決起したとき、趙が「今日は祖国のために死ぬ日だ」というと、「仁を守り義をとるのが私の本志だ」といって、数倍の敵軍をせん滅して戦死している。

 学問の分野では、李朝中期の韓百謙(ハン・ペクキョム)と韓在濂、そして「海東繹史」71巻を編んだ韓致★(「大」のしたに「淵」)(ハン・チユン)が有名である。また権謀術数に長け、世祖の王位簒(さん)奪にくみした韓明會も清州韓氏の出だ。

 湍州韓氏にも学問に秀で、宋への使節となって活躍した韓彦恭がいる。彼は帰国して門下侍中(首相格)となった。また、韓沖は西京留守(平壌の長官)として民生安定に努め、広く民衆に慕われている。

 嘉州韓氏の韓希愈は武術に長け、一兵卒から将軍に昇格した人物で、つねに国防に心を砕いたという。

 名筆家として内外に広く知られた韓★(「獲」のケモノ偏を手偏に)(ハン・ホ)は、開城の出身で石峰と号した。彼が極貧の幼時、母の教えで木の葉や石畳みで習字をした逸話は有名である。

 のちに、中国の使節が彼の雄渾(ゆうこん)な筆致を見て、「石峰の書は、わが国の書聖・三義之、顔真卿と肩を並べる」と激賞した。

 また壬辰倭乱時の明軍の提督・李如松は韓石峰の書を最高の宝物として持ち帰り、琉球からもその書を求めて使者が訪朝したほどである。次回は呉氏。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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