語り継ごう20世紀の物語

朴周達さん(64)

心に溢れる思い20年間日記帳
に刻み夫の遺した事業にまい進


パソコンで毎日、日記をつける朴周達さん


 東京から新幹線で約1時間半。福島県郡山市に住む商工人朴周達さん(64)。彼女が日記をつけ始めたのは、1983年の元旦から。決意がみなぎるような大きな字が日記帳の扉に刻まれていた。

 日記とは心の友なり
 日記とは人生の記録なり
 日記とは生きている灯なり
 日記とは私生活の目標なり
 日記とは記する者の財産なり
 日記とはその人生の歴史なり
 毎日の記録は大変なれど
 生きた印に残したい

 この日から今日までの約20年間、一日も欠かすことなく、心に感ずるままに綴られた十数冊の日記帳。書架に宝もののように収まっていた。

 この日記帳の文字が突然、赤色に変わったのが、90年11月17日。2年間の闘病の末、夫・宗吉高さんの命の灯がまさに燃え尽きようとしていた。

 過酷な病魔との闘いを耐え抜いた夫への感謝の気持ち。もうやすらかにしてあげたい。いや、それでも生きてほしいという相剋、葛藤、矛盾…。行間からは心から愛し、信頼した夫への激しい思いがほとばしり出ていた。

 翌日、夫は福島や山形に13店舗ものパチンコ店と従業員を残したまま永眠した。享年61歳。朝鮮大学校を卒業したばかりの長男と同大2年の次男。朴さんの胸ははち切れんばかりだった。

 「死の2カ月前、病院のベッドでいつものように朝鮮新報を読みながら、『君、ちょっと手を出しなさい』と言うので手を出すと、私の掌に紙切れを握らせたのです。それを後で開けると@総聯を大事にしなさいA朝銀を大切にしなさいB社員を大事に扱いなさい、と箇条書きにした文章で埋まっていた」

 朴さんはそれを見て、少し不満だった。死期を悟りつつあった夫が、書き残してくれるべきは家族へのいたわりの言葉ではないのかと。しかし、長男はその父の言葉を真っ直ぐに受け止めた。「オモニ、アボジは家族がこれからどう生きるべきか、言いたいことを全部言ったんだね」。整理しきれないままにいた朴さんの心に息子の言葉が染み透った。

 「2人とも初級部から16年間、民族教育を受け、全寮制で育った。父の言葉を深く理解できるまで成長したのは、本当にウリハッキョのお陰。昔、6歳の幼い子供を学校に送り出す時、『手放すのがどんなに辛くても、民族教育で育ってこそ、その心は一生、民族と共にある』と言って、絶対に譲らなかった。その夫の言葉を思い出し、また泣きました」

 悲しみを乗り越え、母と子は新しい一歩を踏み出す。90年12月17日、朴さんは社長に、長男が専務に就任。後に次男も加わり、社員たちと一丸になって社業にまい進する新たな挑戦が始まった。

 負債を整理したり、目の届かない店を合理化して、現在は9店舗を経営する。この間、多忙な仕事の合間を縫ってワープロ、パソコンをマスター。夫亡き後の寂しさを埋めるために、心のリハビリとして始めた大正琴もかなりの腕前に。何事も「成せば成る」の精神で立ち向かい、一生懸命に取り組む。

 「日記はいまではパソコンで付けています。仕事を終えて深夜、日記を書く時間は私にとって至福の時。自分の中でくすぶっていることを吐き出すので壮快感もある。もう体の一部です」と微笑む。

 商才にも恵まれ、60代を感じさせぬエネルギッシュな暮らしぶり。幼い頃の苦労を偲ばせるものは何もない。しかし、その歩みは平坦ではなかった。大阪府八尾市に住む一家に転機が訪れたのは1945年。父は兄と弟を連れて、故郷・全羅南道麗水へ帰郷。残されたのは重い腎臓病を患う母と7歳の周達さんだけ。祖国解放の年は、周達さん親娘にとっては、生きるための長い苦闘の幕開けとして記憶されているのだ。

 ある日、オモニがおなかにたまっていた水で苦しみ始めた。オモニを死なせてなるものかと、幼い周達さんは、3キロもの道を裸足で走り、医院に往診を頼んだ。しかし、あの貧しい家の子だと、医院は玄関の鍵さえ開けてくれなかったという。「今からもう半世紀以上前の話。いまでも悔しくて、悔しくて」。

 物心つく頃には、母から2つのことを厳しく言い渡された。「日本人と結婚したら絶対ダメ。そしてもう一つは、どんなことがあっても勉強しなさいということ。『勉強しないと目が開いていても、モノは見えない』と」。そんな母の励ましを受けながら、高校に進学する生徒が一クラス3人ほどだった当時、大阪府立八尾高校に見事合格。学費はアルバイトと育英資金で工面した。「オモニに楽をさせたい一心で、卒業後は銀行に行くつもりで、ソロバン塾にも通った」。そして、念願通り、本名で銀行に就職。

 しかし、ある日、同僚らが「朝鮮人はとうがらしを真っ赤にかけて、うどんを食べる」などと蔑んでいるのを耳にし、銀行を辞めた。別の会社に就職したが、そこでも冷ややかな目に追いつめられた。自殺を考えたり、実家へ逃げ帰ったことも。辛い青春の思い出だ。

 一大転機が訪れたのは、それからまもなく。「睡眠薬を飲んで入院した時に、不眠不休で尽くしてくれた看護婦の姿に打たれ、これだ!と思ったのです。退院するとすぐその医院に就職。朝働いて、昼は看護学校、夜は夜勤の生活を4年続け、看護婦試験に合格しました」。

 院長の推薦を受けて、大阪市内の大病院で看護婦生活を始めた。26歳になっていた。それから3年ほどたってあるハルモニの紹介を受けて、朝鮮学校の教師だったという夫と知り合い、結婚。

 夫の故郷の知人からの勧めで、66年に郡山へ。焼き鳥屋、回転ずし、パチンコと何でも試して、引っ越しだけでも24回を数えた。「お金がなくてもあっても、いつも組織を大事にした人。子供たちがアボジの引いたレールをきちんと歩いてくれているのが、一番の幸せです」。

 今春、2人の孫が朝鮮学校に入学すると目を細めた。(朴日粉記者)=おわり

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