「私一人の問題じゃない、たたかい続ける」

足尾銅山で強制労働 鄭雲模さん


 さる10月、日本弁護士連合会(本林徹会長)は、日本の朝鮮植民地支配時代に日本国内の鉱山や建設現場に強制連行された在日朝鮮人とその遺族の人権救済申し立てについて、小泉首相と2企業に真相究明と謝罪、補償を求める勧告書を送った。申立人は栃木県・足尾銅山に連行され、古河鉱業(現古河機械金属)で強制労働させられた鄭雲模さん(81歳、千葉市在住)と、長野県天龍村の発電所建設現場に連行され、熊谷組に強制労働させられた金一洙さん(94年死去)の遺族。鄭さんは、「これは私一人の問題ではなく強制連行された人たち全員の問題だ。謝罪と補償を勝ち取るまでたたかい続ける」と話している。

奴隷的虐待加えられ

「ここを刀で斬られたんだ」。傷口を見せながら話す鄭雲模さん

 1921年に忠清北道で生まれた鄭さんは、42年2月のある日突然、面事務所に呼び出された。「日本に行って2〜3年働いて来い」。17歳の時に父親を亡くし、兄は朝鮮北部の咸鏡南道に出稼ぎに、姉はすでに嫁いでいた。「母親の面倒を見るのは私しかいない」。鄭さんが拒否すると激しく殴打された。翌朝早く母を連れて逃げようとしたが、自宅の周りはすでに警察官に取り囲まれていた。

 強制的に清州に連れて行かれた。150人余りが連行されていた。真冬だというのに薄い作業着に着替えさせられ釜山へ。船に乗せられ着いたのが下関だった。

 鄭さんが連行された先は栃木県の古河鉱業足尾鉱業所。そこで44年3月まで強制労働に従事させられ、奴隷的虐待を加えられ続けた(勧告書より)。

 あまりにもひどい仕打ちに、組長らによく反発した鄭さんはたびたびリンチを受けた。

 「半島人の1匹や2匹、くたばったってどうってことない。3銭もあれば何十万、何百万と引っ張ってこれる」。当時の郵便切手代が3銭。この言葉は封筒1枚でいくらでも朝鮮人狩りができたことを意味する。

20年以上語り続ける

 20年以上にわたって、自分の体験を同胞や日本人の前で語り続けている鄭さん。日本人の前では、「私は日本人に虐待され日本人に助けられた」とのエピソードを披露する。

 当時、組長の中に「石川」という人物がいた。鄭さんら朝鮮人労働者はよく話しかけられ、「家に遊びに来い」と誘われもした。あまり言うので一度行ったことがある。「米の飯を食べたのはその時が初めてだった」と振り返る。

 石川さんは鄭さんら6人の逃走を助けてくれた。奥さんはカモフラージュ用の学生服を6着調達してくれ、石川さんは逃走経路を教えてくれた。

 逃走に成功した後、鄭さんらは決して連絡を取り合わないことを約束し合い別れた。石川さんの事が知れると彼に危険が及ぶと思ったからだ。

 群馬で朝鮮解放を迎えた鄭さんは石川さん宅を訪ねたが、すでに一家はそこを離れていた。近所の人は仕返しに来たと思ったのか、行く先も教えてくれなかったという。

尊厳回復はかる措置

 鄭さんは、ゲージ(エレベーターのようなもの)から20メートルほど下に転落し、死んだと思われムシロをかぶされたこともある。話を聞き、「よく無事で帰ってこられた」と泣きながら抱きしめる日本人もいた。

 日弁連の勧告書は鄭さんらの過酷な体験を克明に記し、「日本の産業界からの強い要請を受けて、労働力不足に対応するために、産業界と協議して国策として朝鮮人労働者の日本国内への移入を決定し実行した」と日本政府の責任に言及している。「申立人の精神的肉体的苦痛を慰謝するためにその尊厳の回復をはかる措置を講ずるべき」とも指摘している。

 勧告に尽力した弁護士の広瀬理夫氏は、「日本政府と企業の責任を明白に認めたことが一番大きい。人権侵害を糾弾するだけでなくアフターケアにまで踏み込んだ内容」とその意義を強調する。(文聖姫記者)

国の関与認定に異議

 前日弁連人権擁護委員会委員・床井茂弁護士の話 1993年5月から昨年4月まで、8年間、日弁連人権擁護委員会委員を務めた。その間に鄭さんらから人権救済申し立てがあり、予備審査を経て私とほか2人の弁護士が本調査にあたった。聞き取り調査や足尾鉱業所への現場検証などの調査を踏まえて法的に検討した結果、人権救済に値すると判断した。

 2万人近くの弁護士を網羅する日弁連が、強制連行・労働に国が関与していた事実を認定したことはたいへん大きな意義を持つ。同時に、強制連行真相調査団をはじめNGO(非政府組織)、民間団体の草の根運動の積み重ねの上に今回の勧告があり得た。

 強制連行体験者は現在、高齢もしくはすでに亡くなった人も少なくない。彼らへの補償は、日朝国交正常化交渉とは別に日本政府が独自にできる問題、やらなければならない問題だ。(談)

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