山あいの村から-農と食を考える- (4)

手塩にかけた牛との別れ

佐藤藤三郎


 11月13日、全農山形県本部が行う「最上家畜市場」へ子牛を売りに行った。この日も連続の悪天候で、最上地方は霙から雪になっていた。大きなボタ雪が黒い牛の背中におちる。牛の体温で雪はすぐ水玉になるがそれで濡れた牛の背を見るのが、わが子を見るがごとく思えてつらくなる。

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 今年は山形県では平地にも10月中に雪が降りた。木の葉にまだ緑色が残っていて、初霜も見ないうちの雪降りだった。地球温暖化とか、さまざまな気象異変の話を耳にするが、今年の秋の天候は寒く、冷たく、雨に濡れることがべらぼうに多い。まさに異変ともいうべき感じだ。

 そんな悪天候の中、女性の畜主の姿が多く見えた。農作物のとり入れも大方片づいたからだろう。夫婦揃って市場に来られた方も見られる。そしてこの人たちは身ぶるいするほどの寒さのなかにあっても「寒い」とか、「冷たい」の声など全く吐かない。それは寒さになれているからなどではなく、手塩にかけて育てた牛を手放すことへの緊張にほかならぬからだ、という実感が私にはよく伝わる。

 当日の市場は好調だった。昨年の今頃はBSE問題で牛肉の消費が激減し、牛の値がすこぶる低調だったが、それがさも忘れたかまたは反抗するかのように、値があがる。さも「ここで買わなきゃ損をする」といったみたいに購買者の買いとり合戦が行われている、といった風の雰囲気だ。それだけに「黒毛和牛」とか「国産牛」と銘うって売れるものが品不足をきたしているらしいのである。

 私は牛を飼っているのでスーパーにいくと肉のコーナーをよく見てまわる。そこで最近特に気がつくことは「和牛」だとか「国産牛」と銘うつものがきわめて少なく、品うすになっている、ということだ。逆に外国産のものがショーケースの中で広くその陣をとっている。これはいったいどういうことなのかと考えずにいられない。近年日本国内で、牛を飼う人が少なくなり飼育されている牛の頭数も減っている。しかしこれほどまでに国内産の牛肉が少なくなるとは、牛の世界を少しでも知る人には考えられないことだ。それで「まさか」と思わせられる。そして頭に浮かぶのは牛肉の生産地偽装問題だ。

 ホルスタインと黒毛和牛の交雑種(F)を「黒毛和牛」と銘うって売られたことや、山形県産の牛肉を「松坂牛」などといったレッテルで売られるのはまだ許せるが、ともすると、外国産の牛肉が「国内産」などと偽って売られてはしなかったのか、と疑わずにいられなくなる。

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 スーパーのショーケースの牛肉が物語るように、日本の食料自給率はいささかなものにすぎなくなっている。そしてそれを実証するかのように安全性の問題がやかましい。したがって私は、安全性の問題を問うのなら、輸入食料のそれを問い、徹底的な検査と調査を厳しくしろといわずにおれない。つまりBSEも、ダイホルタンも、もとをただせばみな外国から入ってきたものだからである。さらにいえばこの国日本でよりも外国でこそそれが多く氾濫し、使用されているものだからである。そして私は牛のセリを見ながら、こうした国内産の安全で安心してたべられる高級な牛肉はおそらく肉体で骨身を削ってゆく人たちの口に入るのは少ないのであろう、と思ったり、さらには、重労働をする庶民たちほど、あぶない輸入ものをたべなければならない食料政策に日本の農政はなっているのだ、などと思わずにいられなくなる。

 それはそうとしても、自らが自らの生命を守る自助努力をすることも忘れてはならないことなのだ、と思いつつ私のいきつけの店「花果苑」に焼肉をたべに行くことを頭に浮かべていた。この店では「この肉はどこの誰が育てた牛です」とその登録書までも客に示している。したがって安全であり、値段の方も安心してたべられる。上級な肉ながらも庶民に食べやすくしているのである。さらにはいかにも庶民的なやさしさで振るまう女性店長がいい。それによって食味がいっそう高められるからである。(農民作家)

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