生涯現役

金恭子さん(66)

子供が迷うのは親の責任


 女性同盟結成55周年を祝う熊本県大会が、10月27日、熊本市内にあるホテル・ニューオータニ熊本で盛大に開かれた。女性たちはチマ・チョゴリで着飾り、どの顔も晴れ晴れとして見えた。

 この席に長男夫婦を伴って出席したのが、市内で手広く産業廃棄物事業を営む金(金岡)恭子さん(66)。人工透析のため週3回、病院に通い続ける夫の金鐘鳳さん(65)の後を継いで社長としての重責を果たす。その金さんが最近のテレビを見て、一番悔しく思うのは、拉致事件一色に塗りつぶされた日本のメディアの報道ぶりだ。

 「私が40年前に夫と一緒になって、身にしみて感じたのは、在日朝鮮人には何の生活基盤がないということでした。商売を始めようにも銀行が金を貸してくれない。アパートだって貸さない。まともな職だってありつけなかった。今も、基本的に変わっていないじゃないですか」

 身近な在日同胞たちへの根深い差別やその温床となった植民地支配の歴史には、一片も触れず「ただやみくもに『拉致、拉致』と騒ぎ、日本人の人権だけを強調し、朝鮮人の人権を無視する報道ぶりは常軌を逸している」と金さんは怒る。

人工透析の夫を支え

 金さんが夫と出会ったのは、熊本市内の専門学校の教員時代。共に教鞭を執る仲間として出会い、愛を育んだ。しかし、すんなりゴールインとはいかなかった。大きな障害にぶつかった。金さんは地方の旧家の出身で、父は中学校の校長。親兄弟の猛反対を受けた。

 そんな中で福岡県庁に勤める長兄だけが味方になってくれた。「もう、そんな時代ではないと、兄が言ってくれて。子供が生まれて、母が見舞いに来てくれた時は本当にうれしかった」。

 とはいえ、結婚して朝鮮人部落で所帯を持った時のことは忘れられない。豚を飼うのに、リヤカーを引いてエサをもらいに歩いた時の恥ずかしさ。喧嘩の激しさにも驚いたが、日本人の嫁が来たとジロジロ見られたこともあった。

 長男が生まれ、娘2人にも恵まれ、暮らしもやっと落ち着いた頃。そんな日常を揺るがすある事件―。

 長男の慶大さんが福岡の中級部に進み、長女が日本の小学校6年生に在籍していた頃のこと。学校から帰ってきた長女がいきなり「オモニ、私は何人なの?」と母を問い詰めた。金さんは強い衝撃を受けた。

 「子供たちを私の国籍に入れてしまっていた中途半端さが、子供の心に迷いを生んでしまった。子供が迷うのは親の責任だ」と痛感し、直ちに日本国籍を離脱し、朝鮮籍に変更する手続きを始めた。

 その時、金さんの胸に去来したのは、「朝鮮は先祖の祭祀を大切にする国柄。異国で苦労して子供たちを立派に育てた義父母への申し訳なさ」だった。まして、夫は金家の長男。夫の立場を考えるなら、名実共に自分が朝鮮人にならねば、子供をしっかりした朝鮮人には育てられない、と心に期した。20余年前のことだった。

 頑固だった父に日本国籍離脱の許可を得るため、実家に出かけた時「父は(夫と)共に白髪になるまで添いとげるなら、と許してくれました」。長い間の不和が氷解した一瞬だった。

 役所に行って手続きする時、「本当にいいんですか。熊本で初めてですよ」などと窓口の人に何度も念を押された。

民族教育に尽くし

 金さんは朝鮮語を必死に習った。成人学校に通い、娘たちからも学び、独習を続けた。

 夫は苦労を重ねながら、産廃の事業を立ちあげた。金さんも夫の片腕になるべく、コンピューターを学び、簿記学校にも通った。商売も順調で、夫は県商工会副会長に就任。一方で、九州朝高、朝大へと進む子供たちのため、朝高や朝大の理事を13年間も務め、学校に寄付し続けた。

 「民族教育のために微力を尽くすことが、夫の生きがいでした。人は何のために生きるのか、誰のために生きるのか、民族のために生きるんだ、と子供にいつも言い聞かせていました」

 そんな矢先に夫が倒れた。すでに人工透析は75年から続けていたが、その後、入退院を余儀なくされ、金さんは夫の看病に献身的に打ち込んだ。「夫は入院すれば3食とも自家製の弁当でないと食べない人。病院食以外はダメという病院側を説き伏せて…。今では看護師さんから女の鑑だとほめられています」。

 幸い、家業は長男が手伝うようになった。「午前3時の起床から深夜までの重労働。夫が心血を注いだ仕事を引き継ぐにはしっかりした心構えが大事です」。

 25歳まで育った日本人社会。さらに長い40年を同胞たちと歩んだ。「同胞たちは情があつい。今時、御飯を食べた?、と声をかける人がいますか。朝鮮人として受け入れてくれて、喜びも苦しみも分かちあえて…。どんなに幸せか分かりません」。(朴日粉記者)

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