春・夏・秋・冬

 1960年代半ば、テレビの急速な普及に「一億総白痴化をもたらす」と警鐘を鳴らしたのはジャーナリストの大宅壮一だった。考えるという作業を省略、一方的にもたらされる情報、判断に危惧を抱いてのものだった。マスコミがテレビ主体になれば、活字を生業とするジャーナリストたちは片隅に追いやられるという危機意識の反映だったとも取れる

▼この大宅の指摘から40年近くが過ぎた。さて現状はどうだろうか、とたまたま家に篭る機会があって、画面に目をやっていると、これが朝、昼、夕方と毎日毎日、情報の洪水である。それも、いわずと知れた拉致問題の関連である。知り合いの言葉を借りれば、「重箱の隅をつつくような程度のものではない。重箱を壊しその裏までつつくような所作だ」

▼石原都知事は、「戦争も辞さず」という。戦争の悲惨さ、愚かさを体験しているはずのこの世代の口から平気でこのような言葉が飛び出す。果たして視聴者はどのように受け取っているのだろうか、と不安を覚えてしまう

▼われわれ在日の1世たちにしてみれば、軍事力を背景に日本によって故郷を植民地支配され、異国に追われ、侵略戦争に駆り出され、それは身の毛もよだつような日々だった

▼在日だけに止まらず、多くの戦争の時代を生きた日本の人々もその悲惨な体験については異口同音に語っている。なのに、あえて「戦争」という言葉が口にされ、そうした発言が平然とブラウン管を通じてお茶の間に流される現実。時代は今、歴史を逆にさかのぼっているのだろうか。(彦)

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