われらのチャンプ 洪昌守ストーリー -6-
後輩たちの目標に
ハングリー精神学んだ場所
東京朝高ボクシング部
東京朝鮮中高級学校ボクシング部。部室の壁には1975年の創部から現在までの同部卒業生たちの名札がかかっている。3年間の部活動をまっとうした部員たちの「努力の証」。そのなかにWBC世界スーパーフライ級チャンピオン、洪昌守選手の名もあった。 洪選手のボクシング人生は同部に入部したことで始まった。いわば原点である。 「当時に比べたらまるで仏」と笑う李成樹監督(41、体育教員)はこの道20年のベテランだ。李監督の厳しいゲキが飛ぶなか、将来の「洪昌守」を目指す部員たちが毎放課後、練習に励んでいる。 自身も同部の4期生。高級部、朝大、教員時代と通算10年間、ライト・ウェルター級で活躍した経験を持つ。在日同胞選手としては初めて祖国を訪問、朝鮮ボクシング界との交流の道を開いた立役者でもある。参加は実現しなかったものの、80年モスクワでの世界大会では朝鮮の国家代表選手にも選ばれた。 当時の洪選手を「勘の良さと駆け引きのうまさは抜群だった。幼い頃から習っていた空手を通してその術を身に付けたのだろう」と評する。 当時は全国大会への参加が認められなかったため、「幻の日本一」との異名を冠されてきた。部員たちは一般の大会に出場して優勝したり、都内のジムでプロとスパーリングをして打ち負かすなどの方法で自身のフラストレーションを爆発させていた。 洪選手はそのような時代にボクシングを通してハングリー精神を学んだ最後の世代と言える。彼が卒業した翌年の94年に朝鮮学校生徒の全国大会出場が認められるようになったからだ。 「高級部時代は努力の成果を試す場所がほとんどなかった。その悔しさ、もどかしさから学んだハングリー精神は、ボクシングを続けるうえで精神的な支えになった」と洪選手自身が語る通り、その精神が彼らの強さの一因であったことは間違いない。 今まで出られないことが当たり前だった全国大会への出場、洪選手人気からなる部員数の増加、部やボクシングそのものに対する知名度のアップ…。すべてにおいて恵まれた環境で当時の精神が過去のものとなっていくなか、李監督は部員たちに「今の時代に合ったハングリー精神を学んでくれれば」と願っている。 それは、「与えられた条件を生かし、自分の持ちうるすべての力を出し切ってどんな試合にも臨むこと。少しでも強くなるために、自分とのたたかいに勝ってほしい」(李監督)というものだ。 2年前の8月に洪選手がプレゼントした移動鏡の前でシャドーボクシングに精を出していた朴仁秀主将(高3)は、「中3の時、東洋太平洋チャンピオンに輝いた洪先輩の活躍を見て『高級部に上がったら必ずボクシング部に入部する』と決めていた。チャンピオンが同じ場所で練習に励んだと思うと辛い時でも力が湧いてくる。先輩は僕たちの目標です」と語る。 「昌守はボクシングを通して民族の気概を示し、民族教育のすばらしさを体で表した。これからも後輩たちに夢と希望を与える同胞社会のチャンピオンとして活躍してほしい」(李監督)(李明花記者) |