朝鮮の食を科学する(9)

マッコルリと焼酎の文化

高麗、朝鮮朝時代は家醸酒が盛んに


酒を飲み、歌と踊り楽しむ

 古くから酒は飲まれていた。古朝鮮時代には農耕生活にかかわる祭りがあり、迎鼓、舞天、東盟などと呼ばれたもので、酒を飲み、歌や踊りを楽しんでいる。だが酒のつくり方や味わい方については具体的にはわからない。三国時代のこととなると「三国史記」「三国遺事」に酒の名が出てくる。「旨酒」「美掾v「醪酒」などの用語がみられる。どうやら「旨酒」「美掾vは上等の酒で、「醪酒」は濁り酒のようなものを指したようだ。

 統一国家の高麗時代には、公式行事の酒づくり部署として「良搶吹vが設けられている。当時の文献「高麗図経」には「王之所飲日良搓ン庫清法酒亦有二品」と記述されている。王の飲むものは毎日良い揩ナ在庫には清酒と法酒の2種があるとの意味である。さらに同文献には、「庶民が良搶垂ナつくられる酒を得るのは難しく、味が薄く色の濃いものを飲んでいる」としており、「色の濃いのは飲んでもあまり酔わない」と評している。

 おそらくそれが今の「どぶろく」に属するマッコルリを指すとみられる。かくしてこの時代には醸造酒として法酒、清酒、濁酒の3つの酒があったことになる。

 そしてこの高麗時代の終わりころの14世紀に元の国から蒸留酒である焼酒(焼酎)づくりの技法が伝わってくるのである。

 15〜20世紀初頭までの500年にわたる朝鮮時代になると、各種の酒のつくり方を細かく記したものが現れ、今も多く残されている。その内容は現代の醸造理論からみてもまことに合理的で、良くできている。17世紀後半の家庭料理書、「飲食知味方」には49種もの酒づくり法が記されている。両班家の料理本であるとはいえ、一家でそれくらい多様な酒づくり法が生活の中にあったわけである。儒教の礼俗による冠婚葬祭に備えての酒づくり法であることは言うまでもない。

 こうした各家庭でつくられる酒のことを「家醸酒」と呼ばれていた。

 朝鮮時代に花を咲かせたこの酒文化、家醸酒が消えていくのである。20世紀、日本の植民地統治下における酒税法によってである。家庭で余裕さえあれば、幾十種でも自由につくられていた「家醸酒」がつくれなくなってしまったのである。

解放後、南北で消えた「家醸酒」

 税制で酒づくりが自由でなくなっても、初期のころは盆、正月などに限っては速成のマッコルリづくりは認められた。さらに隠れてマッコルリは日常の酒として半ば公然とつくれた。植民地支配への抵抗の姿勢でもあった。この酒が生活の表に出る酒となったのである。

 1週間ほどで飲用できるマッコルリが、いま日本であたかも朝鮮酒の典型のように受けとめられたのは、このようないきさつからである。

 第2次世界大戦での日本の敗戦で朝鮮は解放されるが、酒はむかしの家醸酒の文化には戻れなかった。南北朝鮮とも食糧事情がそれを許さなかったのである。

 「韓国」では米を原料にする酒は禁じられ、輸入の小麦粉を原料にマッコルリがつくられ、タピオカなどのいも類の焼酒づくりの時代が1980年頃まで続く。米の消費量が減り、生産米が余ってきたので、いまは米のマッコルリづくりへと戻ってきている。それでサル(米)マッコルリが強調されているわけである。しかし、小麦粉マッコルリ、焼酒に馴らされた人たちはサルマッコルリにはなじんでいかないのが現状のようである。

 ソウルオリンピックを迎えるにあたり、消された家醸酒を甦らせる運動が起き、数多くの清酒、薬酒、焼酒がつくられるようになった。現在「韓国」の酒消費量の約60%近くは焼酒、約20%がビール、マッコルリは約10%、あとはその他である(2000年統計)。

 北の共和国は戦後一貫して酒の生産は抑えられてきている。マッコルリはみられず、焼酒が中心であるが、生産は多くない。ビール工場がいくつかあり、各種行事に用いられるのは、このビール、焼酒、薬用酒のたぐいである。

 南北共に家醸酒文化が消えたあと、その傷あとを引きずっているというのが現状であろう。1日でも早く民族の酒文化の知恵が戻ってくることを祈りたい。
(滋賀県立大学教授)

日本語版TOPページ