朝鮮人強制連行、北出身者が日本で初証言
19日の国際シンポ(神戸)で
「歴史の真実を知ること、伝えることの尊さを学ぶつどい」と題して19〜20日、神戸市のラッセホールなどで「朝鮮人強制連行真相調査団第7回全国交流集会in神戸」が開催される。今集会には、第2次世界大戦末期、兵庫県相生市の播磨造船所(現石川島播磨重工業)に朝鮮半島北部の平安北道から徴用で連行され帰郷した金明俊さんと朴用洙さんが参加し、証言する予定。数百万人とも言われる強制連行者の中で、日本側の資料に示されている北出身者が日本で証言するのは初めて。8月には同調査団が訪朝して証言を収集。徴用が拉致%ッ様に行われ、連行先では飢餓と奴隷状態に置かれたことが確認された。
徴用者の半分占める
今回の北出身強制連行者の生存確認は、1946年に厚生省勤務局が地方長官(現在の知事)に発した通達「朝鮮人労働者に関する件」を手がかりに調査が進められた。通達の結果判明した名簿の一部は労働省に保管され、うち6万6914人分が90年に明らかにされた。このうち最も多く朝鮮人が連行された地域が兵庫県の1万3477人だった。 兵庫県朝鮮人強制連行真相調査団では、その分析とともに追跡調査を実施。分析の結果、北出身者(3787人)の90%は44年9月からの徴用形式で日本に連行されたことが判明。これは朝鮮半島全体で行われた徴用の51%を占める。 このうち播磨造船所には、金明俊さん(1923年2月生まれ、慈江道在住)、朴用洙さん(23年3月生まれ、平安北道在住)が当時、住んでいた平安北道から448人、平安南道から7人の計455人が連行されてきた。 兵庫調査団では、名簿に名前のある人の消息調査を「『従軍慰安婦』・太平洋戦争被害者補償対策委員会」に依頼。結果、7人が見つかった。だが、4人はすでに死亡し、1人は転居先がわからず、生存者として金さんと朴さんが確認された。 同調査団では、「募集、官斡旋による強制連行・強制労働者のほとんどは、日本と地理的に近く、輸送にも便利な朝鮮半島南部から連れてこられた。しかし、徴用が始まった戦争末期になると、それまでの根こそぎ連行によって南部からの対象者が減り、そのため北部からの連行者が増えたと見られる。兵庫の場合、半数が北出身者であった。当時の状況、分析結果を総合すると、北出身の徴用者の数は全体で14万人に上るのでは」と指摘している。そして、「日本政府は未公開の資料を一日も早く公開し、全容、真相を明らかにすべきだ」と強調する。 教育現場に生かす 今回の集会は、これまでの各調査団の活動をより多くの日本市民に知らせるとともに、21世紀を担う新しい世代に、そして教育現場に生かそうとの試みが組み込まれている。 初日、ラッセホールで国際シンポジウムが開かれる。国連人権小委員会初の副委員となった鄭鎮星・ソウル大教授、朝鮮社会法学研究所の鄭南用所長、茨城大の荒井信一名誉教授が報告する。 その後、5つの分科会が催される。身近な強制連行跡地(近畿)の紹介、在日の強制連行被害者の証言、北と南の被害者の証言などは今回初めての試み。証言は、金さん、朴さんとともに、元「従軍慰安婦」の郭錦女さん、このほどその存在が初めて確認された「農耕隊」として愛知県に連行された金致隣さんと、南出身の被害者らが証言する予定だ。 2日目は、ひょうご共済会館で全体会を開き総括を行う。午後には播磨造船所などの強制連行先を見学する。 大阪、名古屋、東京でも 朝鮮から被害者が訪日するのと関連し、大阪、名古屋、東京で証言集会も開かれる。 また調査団では、北南朝鮮、米国、日本で収集した40万人におよぶ強制連行者の名簿を、神戸市中央区の兵庫朝鮮会館1階ロビーで15〜18日、午前10時から午後4時まで公開する。肉親、家族の確認を呼びかけている。 (羅基哲記者) 飢餓と奴隷労働-金明俊さんの証言 1944年8月、徴用で平安北道から連行された。徴用の通知は地元の役人によって届けられた。「貧しい生活から逃れるためには行かなければならない」という甘い言葉と同時に、「逃げたら家族に危害を加える」との脅迫も受けた。 釜山から船で日本に渡り、兵庫県相生市の播磨造船所に着いた。朝鮮人は「至誠寮」に入れられた。 そこでの日々は、過酷な労働の毎日だった。夜10〜11時まで働いた翌日も早朝から働かされた。 今でも恨みを持っていることがある。与えられた仕事はリベット打ちだった。45年5月のある日、コークスで熱くなったリベットを日本人に渡す作業をしていた時、コークスの熱で蒸し暑くなり、臭いもひどいので気を失ってしまった。翌日は到底、働くことはできない体。にもかかわらず、日本人は「働け」と言い、昼食も半分しかくれなかった。 朝鮮人の食事はいつも極端に少なく、スプーン2〜3杯の量のオカラでは腹が減って耐えられなかった。中には極度の空腹からボロ布を食べようとする人もいた。 劣悪な労働環境と非人間的な扱いの中で、死者も多数出た。船内作業時、クレーンで運んでいた荷物が同胞の1人に当たり、その人は船から落ちて死んだ。日本人はみな、知らん顔をしていた。 日本の敗戦で、朝鮮人は奴隷状態から解放された。しかし、給料は働き始めて1カ月後にもらっただけで、後は受け取ったことがない。帰国する際に旅費が少し出た。 日本政府は、私たちを強制連行し差別したことを謝罪し補償するべきだ。日本政府が過去を清算しない限り、日本によい印象は持てない。 |