「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―(20)朴鐘鳴

断固として戦った義兵たち

侵略軍撃退に明軍も参戦


壬辰・丁酉戦争2

 陸戦では、民衆を中心とする義兵部隊の全国的蜂起が侵略軍の行動を大きく制約した。

 義兵とは、官軍=国軍ではなく、民族と国家の存亡の危機が差し迫った時、自らの意思によって自発的に反侵略の戦いに立ち上がった民衆のことである。

 義兵は儒学者や下級官吏を中心に、広範な民衆が参加して組織され、僧たちさえもそれに加わった。

 日本軍の最初の侵略地であった慶尚道では、まず宜寧の郭再裕が率いる義兵部隊(約2000人)を筆頭に、金時敏(15000人)、金誠一(約15000人)、朴晋(25000人)等が闘いに決起した。

 この後、全羅道の高敬命(約6000人)、金千鎰(約700人)、崔慶会(約700人)等が続いた。

 さらに、趙憲・申蘭秀や僧侶の霊圭は忠清道を舞台に福島正則・蜂須賀家正の軍と戦い、禹性伝と洪彦秀・季男父子等は京畿道を舞台に宇喜田秀家の軍と戦い、朴渾・禹応民・元豪は江原道を舞台に森吉成・島津義弘の軍と戦い、李廷★(香に奄)¢v徳潤・趙光庭等は黒田長政の軍と戦って廷安城を守り、黄海道でゲリラ戦をくりひろげた。鄭文孚・李鵬寿等は咸鏡道北部で加藤清正軍と、柳応秀・李惟一等は咸鏡道南部において鍋島直茂の軍と戦い、高敬命・柳彭老・安瑛・梁大璞等は全羅道侵入を企てる小早川隆景の軍と戦った。

 このように、義兵闘争は、地域を中心とした義兵将たちの指揮下に多様な形態での展開を朝鮮全土にくり広げていった。

 これらの義兵部隊の活躍により、侵略軍の補給路は寸断され、また、侵略軍の小部隊や小都市の占領軍への攻撃、撃滅によって主力軍が孤立し、やがて撤退へと追いやられたのである。

 また、明国にしてみれば、秀吉の野望が「明国征服もするべきで…」とその目的が明白であったことから、朝鮮に支援軍を派遣。

 明軍は、時に横暴、強圧的ではあったが、日本の侵略軍撃退に相応の役割を果たした。

◆               ◆

 壬辰戦争が朝鮮全土に与えた被害は極端なものであり、その故に、朝鮮人の日本観形成に大変大きな影響を与えた。いわく、「惨忍な侵略者」、「好戦的な民族」、そして「野蛮な国」、「人倫をわきまえない種族」などなど。

 日本は、この戦争で民衆に大きな負担と犠牲を強いた結果、秀吉の政権は瓦解して徳川家康の登場となったが、一方、労働力として約50000人の強制連行、技術者、学者の連行、膨大な量の書籍、金属活字の略奪などによって、その後の日本の政治、経済、文化の面で多大な利益を得た。

「歴史の窓」

「義兵約束」

 1 賊に会って逃げたものは斬る。
 2 民衆に害を与えたものは斬る。
 3 将の命令に違犯したものは斬る。
 4 軍機を漏らしたものは斬る。
 5 約束をしておいて背いたものは斬る。
 6 敵の財物を勝手に得たものは表彰しない。
 7 他人の功を奪ったものは功があっても表彰しない。
(李廷★(香に奄)=リ・ジョンアン「四斎集」)

 義兵達は報償が目的ではなく故郷の人々や自然を愛し、民族と祖国を愛し、それらを守るために断固たる態度で戦った、ということがよく分る。

日本語版TOPページ

 

会談の関連記事