ウリ民族の姓氏−その由来と現在(36)

成氏の歴史は古朝鮮から

種類と由来(23)

朴春日


 成氏の本貫は54。著姓の中程に位置するが、その歴史は古く、古朝鮮の大臣・成己(ソン・ギ)は、中国の「史記」「前漢書」朝鮮伝などに登場する。

 紀元前109年、漢の武帝は古朝鮮を征服すべく、5万の軍勢で遼東の王倹城を総攻撃した。ところが古朝鮮の4人の大臣は卑劣にも祖国を裏切り、右渠(ウゴ)王を殺害して投降した。

 「しかし王倹城は陥落しなかった。死んだ右渠王の大臣・成己が抗戦し、くり返し漢軍を攻撃したからである」(「史記」)

 だが結局、成己も敵側に謀殺されてしまうが、彼の戦いぶりが中国側の史書にも記録されたのは、それほど勇猛果敢な闘将であったからであろう。

 むろん、わが国の史書に名を残した成氏も数多く、百済最後の義慈王に仕えた大臣・成忠は有名である。「三国史記」はこう書く。

 「春三月、王は宮廷の家臣と酒色にふけり、快楽におぼれ、酒を止むことなく飲んだ。佐平の成忠が厳しく諫めたので、王は怒って彼を投獄した。以来、王に諫言する者がいなくなった。成忠は獄中で病死したが、臨終のとき王に上書した……」

 成忠は遺書で祖国の危機を説き、外敵が侵入した際の防御策まで提言したが、愚鈍な義慈王はそれを無視。百済は結局、唐と新羅の軍勢によって滅ぼされてしまう。

 成氏のうち、最も知られているのは昌寧(チャンニョン)成氏で、始祖は高麗の戸長・成仁輔。その後孫・成士弘、成士達を始祖とする氏族も生まれている。

 高麗末の民部尚書(長官)・成汝完は、李成桂一派の鄭夢周暗殺事件を目撃し、世を捨てて隠遁した。その後、李成桂が王座につき、名望ある彼を侍中(首相格)に任じて都へ招いたが、最後まで拒絶したという。

 しかし、成哥(ソンガ)の中で、成三問ほど称賛され、その死を惜しまれた人物もまた、稀であろう。

 彼は名君世宗が選んだ逸材中の逸材で、「訓民正音」創製の大功労者であったが、世宗の死後、その孫・端宗が叔父の首陽大君に王座を簒(さん)奪されたことから、大きな悲劇に巻き込まれてしまう。

 大恩ある世宗から、「この孫を頼む」と遺言されていた成三問らは、同志とともに密かに端宗の復位を図り、決起の日を迎えたが、金★(王偏に質)という裏切り者の密告によって全員逮捕されてしまった。

 王座を占めた世祖は、「なぜ余に背いたのか」と追及した。すると成三問は、「真の王君を復位させるためである。天に二つの太陽なく、地に二人の王君なし、ではないか」と答えたという。

 後世の史家は、このとき処刑された6人を「死六臣」、下野した6人を「生六臣」と呼んで讃辞を惜しまなかった。次回は大氏と太氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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