ウリ民族の姓氏−その由来と現在(34)
檀君の賜姓伝承持つ扶餘徐氏
種類と由来(21)
朴春日
徐氏の本貫数は150前後と見られるが、その中で最も古い歴史を持つのは、檀君の賜姓伝承を持つ扶餘(プヨ)徐氏といわれる。始祖は徐秀孫だ。
その昔、★(さんずい偏に歳)(イェグク)に余守己(ヨ・スギ)という君長がいた。彼には9人のすぐれた息子がいて、村々をよく治めていたので民百姓の信頼も厚かった。それを知った檀君が彼らをほめ讃え、「徐」姓を下賜したという。 事実はともあれ、この伝承の重要な点は、余守己一族が、朝鮮民族の原始祖であり、わが国初の建国始祖・檀君の子孫であることを誇示したことであろう。 つぎに、徐氏の基本をなす利川(リチョン)徐氏の伝承を見よう。 その昔、古朝鮮に魏満(ウィマン)という人物がいて、燕の国が強大になるとそこへ移り、燕が匈奴(きょうど)に圧迫されると、再び古朝鮮へ戻ったりした。 魏満は古朝鮮の準王に取り入って信任を得ると、機会を狙って政変を起こし、準王を追放して王座を奪った。そこで南方へ逃れた準王は、韓という国で王になった。 彼らの族譜によると、準王は最初、利川(京畿道地方)の徐阿(ソア)城に立てこもったので、その「徐」をとって姓氏にしたという。 もう1つの伝承がある。それは新羅の徐神逸(ソ・シンイル)を始祖とするもので、狩人であった彼が追われた鹿を救ったところ、子々孫々、出世をして繁栄したという。 高麗時代、契丹の侵略軍80万を撃退し、女真族も駆逐した名将・徐熙(ソ・ヒ)将軍は、この徐神逸の後孫である。そして、利川徐氏と大邱徐氏の出身であった。そして、この氏族には李朝の名臣といわれた徐景雨、徐邁修、徐龍輔、徐箕淳らがいる。 つぎに、わが国ばかりでなく中国、日本にも広くその名を知られた李朝中期の哲学者・徐敬徳(ソ・ギョンドク)は、唐城(タンソン)徐氏の出身だ。始祖は徐得富である。 達城(タルソン)徐氏の始祖は徐★(門がまえに干)(かん)。この氏族にも、李朝の名臣といわれた徐宗泰、徐文重、徐命九らがいるが、見落とせないのは李朝末の農政家・徐有渠(ソ・ユゴ)である。 彼は相次ぐ飢饉の窮状を打開すべく、第11次朝鮮通信使に依頼して日本から甘藷(かんしょ)の種を入手。その栽培法を広めて大きく貢献している。 そのほか主な本貫と始祖を列挙すると、宜寧・徐時義、長城・徐稜、連山・徐寶、平當・徐俊邦、南陽・徐厚、福興・徐希亮、監州・徐自蕃、黄山・徐茂などである。つぎは「氏の予定。(パク・チュンイル、歴史評論家) |