「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―(19)朴鐘鳴

李舜臣指揮の水軍で大勝利

秀吉の妄想を打ち砕く


壬辰・丁酉戦争(「文録・慶長の役」)1

 豊臣秀吉は、16世紀半ば頃日本をほぼ掌握したが、同時に解決すべき社会、経済的諸問題も抱えこんだ。

 @統一過程で、所領から切り離された大名や土豪の問題、秀吉の指揮下にあった大名間の対立問題(例えば、徳川・伊達・島津…対小西・石田…)。

 A秀吉の「天下統一」による戦いや、大名取り潰しなどによる「浪人」(失業した武士)の問題。

 B農民たちの身分・職業を束縛し、連帯責任制を押しつけ、検地(壬辰戦争の1年前には始めている)を強行することによって農民支配を強化していく問題。

 C国内での戦乱終結による、商人たちの「市場」の縮小・閉鎖・利潤の激減、そして彼らの独占貿易への欲求(貿易に深く関わっていた西国大名―鍋島・加藤・亀井など―が侵略に積極的であった)等々。

 いわば、目を海外にそらす戦争を起こすことによって、問題の包括的解決をはかったのである。

 さらに、秀吉は自分の功名を三国―日本・明・朝鮮―にまで顕わし、「死後、神の位を得、日本の大豪傑として祭られ」たいといった妄想的「功名心」も、朝鮮侵略の動機となったと言えよう。

 一方朝鮮では、建国以来200年が経過し、その間基本的に外侵もなかったことから、支配者たちは「太平」の世に慣れ、「経世済民」よりも、儒教(朱子学)の名分論に基づく、「東人」よ、「西人」よといった派閥争いに明け暮れ、侵略に適切な対応策をとらなかった。

 日本に派遣された使節の報告も、正使黄允吉(西人派)は「侵略が必ずある」と言い、副使金誠一(東人派)は「侵略はない」と言った様な全く正反対の内容であった。

 以上のように、適切な防備策も十分でないまま、4月13日の日本の侵略が始まり、その結果、5月3日にソウル、6月15日には平壌が陥落してしまった。

 このような危機的状況に転換点をもたらしたのが、李舜臣指揮下の朝鮮水軍と、全国で蜂起した義兵たちの活躍であった。

 李舜臣の率いる水軍は、5月7日、藤堂高虎指揮下の水軍と玉浦で戦い、これを撃破したのを皮切りに、15回の海戦で日本船340隻を撃沈、日本兵10000人以上を殺傷した。この間、朝鮮水軍の被害は、戦死38人、負傷兵176人で船には殆ど損害はなかった。

 この結果制海権を朝鮮水軍が握り、日本水軍は、秀吉から指令があるまで朝鮮水軍に戦いをいどんではならないといわれる程に、朝鮮水軍の実力のほどを思い知らされ、やがて補給線の維持に困難を来し、本来の作戦であった水・陸進攻作戦に破綻をもたらした。これによって、戦局は大きく転換したのである。(歴史学者)

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