ウリ民族の姓氏−その由来と現在(33)
李成桂に王位をさん奪された王氏
種類と由来(20)
朴春日
わが国の姓氏を振り返っていると、いくつかの不思議な事例に気がつく。その1つが王氏だが、どうしたわけか、王姓の同胞にはなかなか出会わない。
いまの本貫数は15。確かに少ない方だが、かつては稀姓の中程に位置していた。しかも初の統一国家―高麗の創建者は王建(ワン・ゴン)であるから、その王族数や後裔を考えても、これは不思議といわざるをえない。 そこで三氏の歴史をたどると、すでに古朝鮮時代、王受兢、王蒙という人物が見える。つづく三国時代には、百済から倭国へ招聘(しょうへい)され、「学問の始祖」と尊崇された王仁(ワン・イン=わに)博士が脚光を浴びた。 また新羅には、風刺詩人・王居仁がおり、高句麗には大臣の身で、音楽家として名をはせた王山岳がいる。そして渤海には、34次にわたる訪日親善使節の中に、王新福、王孝廉、王文矩らが名をつらねていた。 高麗の太祖・王建は、この王氏の中心となる開城王氏の始祖であり、江陵王氏は子息の王裕、海州王氏は王姓を下賜された王儒が始祖となっておおいに繁栄している。 こうして建国以来500年、世界に文明大国―「コリア」の名をとどろかせたのは、まさに王氏一族の力によるところ、大だったのである。 ところが、その王氏が14世紀末になると、なぜか歴史の舞台からほとんど姿を消してしまう。それは一言でいって、李成桂一派の「王氏滅族作戦」にある。 周知のように、李成桂は「威化島回軍」によって高麗の王権を簒(さん)奪すると、首都を開城から漢陽(ソウル)へ移し、李朝の王座に君臨した。そして王氏一族の復讐と反抗を恐れ、高麗王族とその重臣たちを次々に処断してしまったのである。 そればかりか、李成桂らは高麗王族を江華島や巨済島に閉じ込めただけでなく、王氏一族を捕らえて船に乗せ、無人島に放逐するか、沖合で沈没させるなど、残酷きわまりない滅族作戦を強行した。 そのため、高麗王族と血縁の遠い王氏たちは、やむなく故郷を捨てて放浪し、王姓を他の姓に変えて生き延びる道を求めた。 こうして彼らは、「王」の字に「、」を打って「玉」姓に、同じく2本の画を下ろして「田」姓に変える方法で、「申」姓や「車」姓にも変えたりしたのである。 そのせいか、李朝時代には著名な王氏が登場してこないが、世祖(7代)のとき、武官であった王邦衍は興味をひく。 彼は、世祖が甥・端宗(6代)の王座を奪い、江原道へ流配したとき、その護送を命じられた。が、幼君の悲運を深く悲しみ、詩「君と別れて」を詠んでいる。 彼の胸をよぎったものは、かつて李成桂によって王位を簒奪された高麗王と王氏一族の悲史ではなかったろうか。つぎは徐氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家) |