「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―(13)朴鐘鳴

統合新羅と日本

遺新羅使、律令、貿易


飛鳥・天平文化時代

 新羅による三国統合戦争によって滅亡した百済を「支援」するために軍隊を送った日本は、「白村(ペクチョン)江」で大敗し、新羅の攻撃を恐れて九州に「防人」を配置し、西日本各地に山城を築くなどした。しかし、新羅からの攻撃はなく、7世紀末以後国交の回復が計られた。

 先進的な文物を取り入れるために日本は新羅との関係を重視した。両国の関係は668年、新羅の使節が日本に派遣されて以来再開され、約200年の間に遣新羅使が35回新羅に送られている。このほかに商業目的などによる私的な往来も多数あった。この時期はまた、日・唐間の交渉が途絶えた時期でもあり、日本の「大陸文化の吸収」は、新羅に留学生・僧を多数派遣し、新羅の律令制や学制などを学ばせることによって実現した。

 日本では大宝元(701)年に律令制度を公布している(「大宝律令」)。新羅では、520年には以前からあった「理方府格六十余条」を修正した律令を公布している(「三国史記」)。これは、それ以前からあった律令を参酌し、長い時間をかけて自国の現状にあったものに改編していたことを示すもの。

 日本は新羅との国交回復後、頻繁に使節を往来させながら自国の律令制度の確立の方策を学ぼうとした。それは、大宝律令の公布直前の新羅との往来記録からも推定できる。675(天武4)年から700(文武4)年まで9回も派遣している。

 日本はこのように、頻繁な使節派遣を通じて、新羅で実施された律令制度確立過程を学び、大宝律令の手本としたものと考えられる。つまり、新羅そのものからさまざまな事を学んだのである。

 遣新羅使の実務担当者には、多くの渡来系の人々が登用され、新羅に留学した僧のうち多くの僧が「還俗」して、日本国家の運営に大きな役割を果たした。

 大宝律令制定に大きな役割を果たし、その功績により官位をえた新羅系の伊吉博徳(いきのはかとこ)は持統9年の新羅遣使の一員であった。

 日本は630年以後約200年の間に15回の遣唐使を送ったが、これらの使節の往来には新羅の商船、船員や唐にあった新羅人使節がたびたび利用されている。

 新羅は渤海、唐、日本などと活発に貿易を行った。絹織物、麻布、人参、工芸品などが輸出された。造船、航海技術の発展の結果であった。

 新羅の商人は唐の沿岸部や都近くの商業の要地に「新羅坊」という居留地をつくり、その優れた航海術で朝鮮・中国・日本・琉球などと広く交易を行った。

 新羅と日本との交易は盛んであり、日本では朝廷がまず交易を行い、次に民間の商取引を認めるという方法がとられた。それ故、「萬葉集」に遣新羅使の歌が145首も残るのである。

「歴史の窓」

 「萬葉集」巻第15には、天平8(736)年の遣新羅使一行の歌が145首も収載されている。

 数首紹介する。数字は歌番号。※印は渡来人。

 3587  栲衾(たくぶすま)新羅へいます君が目を今日か明日かと斎(いは)ひて待たむ

 3589  夕さればひぐらし来鳴く生駒山(いこまやま)越へてそ吾(あ)が来る妹(いも)が目を欲(ほ)り(※秦聞満)

 3638  これやこの名に負ふ鳴門(なると)の渦潮に玉藻(たまも)刈るとふ海人少女(あまをとめ)ども(※田辺秋庭)

 3696  新羅へか家にか帰る壱岐(ゆき)の島行かむたどきも思ひかねつも(六鯖)

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