ピースボート・南北コリアクルーズに参加して  高橋哲哉

平和望み、自然体で生きる平壌の人々

たかはし・てつや  1956年生まれ。東京大学総合文化研究科助教授。著者に「歴史/修正主義」「逆光のロゴス−現在哲学のコンテクスト」「戦後責任論」「断絶の世紀 証言の時代戦争の記憶をめぐる対話」「私たちはどのような時代に生きているのか」など多数。 平壌の人民大学習堂の前で(筆者提供)

 「第34回ピースボート・南北コリアクルーズ」に参加して、朝鮮民主主義人民共和国と韓国を訪れた。8月27日に神戸港を出航、30日に南浦から平壌に入り3泊4日、9月4日に仁川からソウルに入り2泊4日、9月8日に東京に戻った。

 出航まで、というより実は共和国入国直前まで、訪問が中止になるのではないかとおおいに不安だった。歴史教科書問題と小泉首相の靖国神社参拝問題で両国との関係は近年最悪の状態で、民間の交流企画も次々にキャンセルになっていた。そのうえ共和国との関係では、6月と8月の2度にわたって、市民集会での証言を目的に来日しようとしていた戦争被害者と関係者に対し、日本政府が直前になって入国拒否をするという異常事態が生じていた。朝鮮対外文化連絡協会の文在哲委員長が平壌に入った私たちに、「あなた方が今ここにいるのは奇蹟です」と語ったのも、決しておおげさではなかったのである。

 元来1982年の教科書問題をきっかけに生まれたピースボートが、今回の日本政府の一連の恥ずべき振る舞いに対して毅然とした態度をとったこと、また91年以来、共和国との交流実績を積み重ねてきていたことも評価されたのかもしれない。だがそれにしても、このような状況下で日本から500人以上の訪問団を受け入れる決定を下した、共和国側の懐の深さには驚かされた。とくに、みずから不当な入国拒否に遭いながら、真に友好的な精神で私たちの受け入れに道を開いてくれた黄虎男氏の御尽力を忘れることはできない。

 平壌市内の見学、観光、板門店訪問などで最も印象に残ったのは、出会った人々の率直さだった。連日行動を共にして親しくなったガイドさんはもとより、博物館から家庭訪問まで訪れた先で応対してくれた人たち、平壌外国語大学日本語科の先生方や学生たち、ピースフェスティバルで一緒に踊った若者たち、さらには板門店の軍人たちさえ、私たちのもしかしたら図々しいと思われたかもしれない矢継ぎばやの質問、疑問にも決して嫌な顔をせず、ごくごく自然体で答えてくれたからである。

 食糧事情は厳しい時期を乗り越え好転してきていること、エネルギー事情はまだ厳しいけれども、自分たちはどんなに苦しくても抗日闘争世代の苦しみを思い起こして頑張るつもりであること、そして何よりも祖国統一を熱望していること……。板門店で受けた説明の中に韓国を敵視する言葉がほとんど聞かれず、「自分たちが対峙しているのは米軍なのだ」という論理が貫かれていたことにも強い印象を受けた。「私たちは平和と友好を望んでいるのに、日本政府はなぜアメリカと一緒になって私たちを敵視し続けるのか」という言葉を何度も聞いたが、ピースボートのアンケートでは、回答者の実に80%以上が「訪問前より北朝鮮の印象が良くなった」と答えている。逆にいえば、90年代のメディアを中心とした「北朝鮮バッシング」の影響がいかに日本の市民にも浸透しているか、ということでもあろう。

 「つくる会」歴史教科書の影響も見られた。日本の侵略責任に関する歴史認識の深化を一つの目標とするクルーズなのに、「『つくる会』の教科書にも良い点がある」「面白くて分かりやすい」「新鮮な見方を提示してくれた」などという若者もいて、激論になった。しかし、平壌で元「慰安婦」被害者の李相玉さんの証言を聞き、ソウルで「ナヌムの家」を訪れ、ハルモニたちの日本大使館への「水曜デモ」の様子を見た人々のほとんどは、日本軍「慰安婦」問題の真実を理解したと思う。「つくる会」シンパだった若者の中にも、たしかに変化が感じられた。

 今回の旅の途中、私たちは「海の38度線」を南から北へ、北から南へ直接越えた。日本の植民地支配がなければ引かれなかっただろう「占領分割線」が「軍事境界線」となり、多くの悲劇を生み出してきたが、北と南を連続訪問して本当に実感できたのは、どちらの側の人々も平和を熱望しており、同じく平和を望む人々との交流を求めているという単純かつ当然の事実だった。

 東アジア地域の平和秩序構築のため、日本政府はまずすみやかに植民地支配責任を清算すべきである。私はまた機会があれば、次回はぜひ、今回参加できなかった在日朝鮮・韓国人の人々と共に南北を訪問したいと思う。

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