ウリ民族の姓氏−その由来と現在(7)
三国時代に吏読式表記使用
起源と変遷(5)
朴春日
では古代朝鮮三国の支配層は、中国との政治的関係と経済・文化的交流をつうじて、まさに奔流のごとく流入する漢字文化をいかに咀嚼(そしゃく)し、どのように活用したのであろうか。
これについて注目されるのは、「三国史記」に見えるつぎの2つの記事である。 まず百済本紀・近肖古(クンソゴ)王30(375)年条の、「百済は開闢(かいびゃく)以来、文字をもって事柄を記すことができなかったが、ここ(この王代)に至って博士・高興(コフン)を得、初めて『書記』を編纂した」という記事。 もう1つは、高句麗本紀・嬰陽(ヨンヤン)王14(600)年条の、「(王は)大学博士の李文真に命じて古い歴史書を簡略にし、『新集』五巻を編纂させた。建国当初、文字を使い始めたときに、ある人が(種々の)出来事を百巻も書き記した。名づけて『留記』という」とある記事である。 残念ながら、これらの史書は現存していないが、わが国の歴史学者の間で論議されたのは、この記事中の「文字」という語が神誌(シンジ)文字を指すのか、あるいは漢字のことなのか、であった。 その結果、この「文字」は漢字を指しているが、史書「書記」「新集」「留記」は漢文ではなく、わが国独自の「吏読(リドゥ)文字」によって編さんされたとみなしたのである。 この「吏読」という名称は、7〜8世紀頃から三国で使用されたが、これは「官吏が使う文字」、または「官庁用の文字」という意味で、言語学者・柳烈氏はつぎのように規定している。 「吏読は漢字を基本手段とし、その音と訓を朝鮮語の立場で利用し、わが朝鮮語の構造的特性に合うよう、独特な方式で表記する特殊な類型の文字である」(「三国時代の吏読に関する研究」―平壌・科学百科辞典出版社) この吏読式表記法を創案し、それを建国初期から活用したのは高句麗であった。それは平壌城の石垣に刻まれた文字、忠州(忠清北道)の高句麗碑などに見られる。 高句麗は古朝鮮時代の漢字利用の経験を受け継ぎ、新たに吏読式表記方法を確立して、それを人名、地名、官職名、叙述文などに用いた。 たとえば、高句麗の始祖王「朱蒙(チュモン)」は、弓の名手という意味の古代朝鮮語「주무(チュム)」を漢字の類似音で表記したものであり、同様に地名「阿斯達(アサダル)」は、初めての地、新しい地を意味する「아시다(アシダ)」から、また官職名「莫離支(マウリジ)」は、頭(かしら)を意味する「마리지( このような高句麗の吏読式表記が、同族国家である百済と新羅にも伝えられ、その王族と貴族社会で使用されたのはいうまでもない。(パク・チュンイル、歴史評論家) |