金九暗殺犯は米諜報部員
趙真二
先日、インターネットハンギョレに、朝鮮現代史の大きな謎のひとつであった白凡金九の暗殺犯は実はアメリカの諜報部員であったとの記事が踊った。
類いまれな自主精神 李承晩の単独政権に反対し南朝鮮において南北統一運動の求心点であった金九の暗殺(1949年6月26日)に、朝鮮分断と単独政権樹立の張本人であるアメリカがやはり関与したらしいことを裏付ける内容であったために、よりいっそう関心をひいた。 統一をみることなく分断勢力の凶弾にたおれた金九であったが、奇しくも暗殺の真相が、統一世紀―21世紀の最初の年に統一勢力によってあばかれようとしている。 金九の活動や思想をとおして、暗殺の背景や、統一運動における教訓について考えてみたい。 金九の73年の人生は救国と独立そして統一に捧げた生涯であり、そこには類まれな自主精神が貫かれていたが、波乱万丈の数奇な人生でもあった。 金九は1876年に黄海南道の海州で父金淳永と母郭楽園のあいだに生まれた。 金九の幼名は昌巖(岩)、9歳から国文(朝鮮文字)、漢文を学び科挙試験の準備をしたが、売官売職の手段となっていたそれに落胆し試験を断念した。東学に入道したときから名を昌洙(後に名を亀に、号を蓮下に改めた)としたし、1894年の甲午農民戦争では700余名の軍を率いて官軍を襲撃した。また1896年には「国母」閔妃殺害の敵討ちだとして日本陸軍中尉土田譲亮を素手で殺害して死刑を宣告されたが高宗の特命で死刑が中止された後、脱獄して逃亡生活に入った。それから数年間は中国や国内各地を転々とする放浪の旅が続いた。金九は幼い頃から文武にその才能の片鱗をのぞかせたが、要するに多少過激な性格と、19世紀の国難にたいする怒りが、彼の行動を後押ししたのである。しかし兵書や東学の教理、とくに高名な儒学者高能善の教え(亡びゆく国をいかに助けるか)は金九の救国の戦いに影響を与えたようである。 20世紀に入り、日本帝国主義は朝鮮侵略を本格化させていった。 1905年「乙巳保護条約」、1907年「丁未七条約」、1910年「韓日併合条約」と立て続けに許しがたい条約を押しつけて朝鮮の国権を奪い取ったのである。そんなおり安重根によって伊藤博文が暗殺された。金九はこの事件と関連したとして逮捕され不起訴になったり、また1911年のある事件の関係者だとして3度目の逮捕となり、残虐な拷問をうけた(獄中で彼は名前を亀から九に、号を蓮下から白凡に変えた)。 南北連席会議出席へ 金九は、1919年の3.1運動に積極的に参加したが、逮捕される危険が迫ってきたので同志たちと中国に亡命したのである。上海に渡った金九は安昌浩、金奎植、李始栄らとともに亡命政権である上海臨時政府を樹立した。金九は、27年には首班となり以後解放まで中心的役割を担った(この臨時政府は何度となく移動をかさね、重慶におちつく)。また彼は、李奉昌や尹奉吉による天皇裕仁や要人暗殺を計画、実行したりもした。彼がとくに力を注いだのが独自の軍隊創設と反日統一戦線であった。40年には韓国独立党(韓独党)の軍事組織として光復軍を創設し、日帝との決戦に備えたし、また蒋介石からの援助をとりつけたり、アメリカとの合作の道も模索したのである。また韓独党は社会主義的性格を持つ組織であった金元鳳の朝鮮義烈団との統一戦線を形成した。当時の状況からすると画期的なことであった。 1945年8月15日、日本降伏を西安で知った金九は27年間の独立運動を終え、11月23日に帰国した。しかし、解放朝鮮は米ソによって分割占領され、とくにソウルはアメリカ軍とそのひ護をうけた買弁資本家、地主を中心とした親日派でかためられた韓国民主党や李承晩らに支配されていたのである。 金九としては臨時政府を中心に新政府樹立を考えていたが米軍政に否定され、国内に支持基盤がなかったこともあって、彼の政治的立地も狭まるばかりであった。 統一と建国をめぐる南朝鮮内の左右の対立を決定的なものにし、金九の政治的立場を決定づけるきっかけになったのが45年12月末に発表されたモスクワ3国外相会議の決定であった。当初、この会議の決定が朝鮮にたいする5年間の信託統治だといわれたが、そうではなく朝鮮の代表による民主主義臨時政府を樹立することであり、それを援助するための5年間の後押し(「信託」)をするということである。しかし、人民の意思、感情にはそぐわないのもたしかで、決定が誤ってつたわったのとあいまって、南朝鮮ではいわゆる「反託」、「賛託」をめぐり左右の対立がおこったのである。金九ももちろん「反託」の立場であり、民衆の「反託運動」の先頭に立ったのはいうまでもない。 しかし、金九の「反託運動」は46年に入りソ米共同委員会の開催などにより民族分裂を助長するものとして世論の非難をあびるようになった。三相会議の決定は当時の状況を考えれば、合理的で現実的な決定であったことは周知の事実である。 金九は「反託」と即時独立、外国軍の撤退の立場をつらぬき、そしてアメリカと李承晩がソ米共同委員会を破たんさせ、朝鮮問題を不当にもUNに持ち込み、南朝鮮だけの単独政権樹立を露骨に画策するに及んでは、「単政」反対、南北政治協商の開催、南北総選挙による統一政府樹立を主張した。そして歴史的な48年4月の南北連席会議に出席し「…祖国がなければ民族がないし、民族がなければ何の党、何の主義、何の団体が存在しえようか。…わが全民族の唯一最大の課業は、統一独立を戦いとること」と述べたのである。 すでに金九はアメリカと李承晩を含む分断勢力の最強の批判者であり、彼らにとって最大の「厄介者」であったのだ。 そして金九の戦いも及ばず南では単独選挙が実行されアメリカに後押しされた単独政権が作り上げられたばかりか、生前、自身が予言していたとおり凶弾にたおれたのである。 金九の愛国心や自主統一を願う情熱と思想は、われわれに民族の一成員たるべく生きる範をしめしたばかりでなく、祖国の統一には外勢と分断勢力を団結した民族の力で排除する以外に道はないということを教えてくれた。 金九の決断と北南関係 明日、中断していた北と南による閣僚級会談がソウルで再開される。 6.15共同宣言を実行するため南北間の窓口になっていた閣僚級会談が一時中断を余儀なくされたのは、ブッシュ米政権の強行政策が招いたものだが、南側に共同宣言の実行を反対する親米右翼勢力が存在、南北関係の改善を妨げているのもさまざまな影響を与えている。 民族の分断に米国が深く関与している状況で、北と南の民族が自主的に力を合わせ、統一への道を切り開くうえにおいて、晩年に米国と親米勢力による分断工作に反対して、思想、信条を異にする北と力を合わせて、統一独立への道を歩んだ金九の決断は賞賛されてあまりある。 米国が金九を暗殺したのは、彼の右翼的思想がその原因ではなく、自主的な民族統一への熱情と志向であったことは明白だ。 このことは統一問題において、障害は北と南の思想、体制の違いではなく、分断から利益を得る米国の分裂政策にあるといえよう。 思想、体制の違いを理由に統一に反対するのはおろかなことだ。 閣僚級会談が再開される今、6.15宣言を実行するにおいて、解決されるべき問題が何なのかをもう一度熟慮すべきではなかろうか。(朝鮮大学校歴史地理学部講師) |