「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―(12)朴鐘鳴
新羅・秦氏、広隆寺
国宝弥勒菩薩半跏思惟像
「広隆寺」を知っているか、とだけ言われて首をかしげる人も「弥勒半跏思惟像―あの考えこんでる仏さんのある寺」と言えば、ほとんどの人がうなずく。広隆寺は秦氏の氏寺で、京都最古の寺院である。
「日本書紀」応神天皇14年条に、弓月君(ゆづきのきみ)が百済より人夫120県を領(ひき)いて「帰化する」、とあって、この弓月君を「新撰性氏録」では秦氏の祖とする。 新羅系渡来人である秦氏は、5世紀後半ごろ嵯峨野地域に定着し、ほとんど未開発だったこの地をすぐれた土木技術をもって開発した。葛野の大堰を完成させ、桂川一帯の治水に成功したのはその一例である。また農耕技術をはじめ、機織(はたおり)、金工、木工など各種の手工業的技術にすぐれた集団を擁して莫大な財力を蓄積し、恭仁京・長岡京の造営、そして平安遷都にも大きく貢献した山背最大の豪族であった。 広隆寺の創建者は、秦氏の長である秦河勝(はたのかわかつ)であった。広隆寺と一般的によばれるようになったのは、8世紀後半。 太泰には、すでに消滅した古墳を含め6基の前方後円墳があった。現存するのは天塚(あまづか)古墳、仲野親王陵(なかのしんのうりょう)古墳、蛇塚(へびづか)古墳である。これらの被葬者が泰氏の首長級であることに異論はない。この周辺には、蚕の社(かいこのやしろ)、大酒神社、松尾大社など泰氏ゆかりの神社があり、「日本書紀」雄略天皇15年条にみえる「禹豆麻佐(うつまさ)」(太泰)起源説話や、「新撰姓氏録」に、秦氏の太秦公宿禰に賜姓されたと記載されているのは秦氏のこの地域での居住を物語っている。また、当時の古墳を造りうる財力や土木技術をもっていたのは秦氏以外には考えられない。 広隆寺と朝鮮との関係は「日本書紀」、その他の資料に見ることができる。「書記」推古31(622)年条に、「秋7月、新羅が大使奈末智洗爾(なまちせんに)を派遣し、任那は達率奈末智(たちそちなまち)を派遣してともに来朝した。そして仏像一具及び金塔と舎利、また、大灌頂幡一具・小幡12条を貢った。それで仏像を葛野秦寺に安置し、舎利・金塔・灌頂幡等は皆四天王寺に納めた」とある。「上宮聖徳太子伝補闕記」(平安初期)、「聖徳大使伝暦」(917年)には、新羅からもらい受けた仏像を、「蜂岡寺」に安置したとある。これらのことは、広隆寺創建のために新羅が仏像を贈ったと考えられる。 また、この寺が朝鮮三国と深くかかわっていたことを示すものに、戦後の国宝指定第1号である弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)と、宝髻(ほうけい)弥勒(泣き弥勒)がある。前者の像は、推古11(603)年聖徳太子から河勝がもらい受けた仏像であろうといわれているが、新羅から贈られた可能性も高い。 というのも、この仏像は他の飛鳥時代の木彫仏とその技法、材質において全く異なるからである。まず、飛鳥時代の木彫仏はすべて材質が樟であるが、この思惟像は赤松であるという点、そして、この像の彫り方が他の飛鳥像と異なり、木裏から彫っていること、さらに、頭部から右手指まですべて一木から刻み出している点など、朝鮮からの渡来像の1つと見てよい。また、この像がソウル国立中央博物館の金銅弥勒菩薩半跏思惟像と瓜二つの型式であるということからも、渡来仏であるといえる。仮に日本で作られたとしても、渡来人の作に間違いない。宝髻弥勒も飛鳥、白鳳時代に渡来人の仏師によって制作されたと思われる。 |