命ある限り−三浦文学を語り継ぐ(下)

罪を認めてまず謝罪を

人間のあり方見つめる深い力/暗黒の時代 再び許さぬ行動を


 「三浦綾子記念文学館」は、代表作「氷点」の舞台となった、旭川市郊外の外国樹種見本林に立つ。ドイツトウやストローブマツなど50種、4万2000本が茂る森の中に、茶色の12角形の建物が溶け込んでいる。綾子さんの希望で身障者に配慮した設計で、スロープやエレベーターも設置されている。

 三浦文学のテーマを「ひかりと愛といのち」ととらえ、展示スペースを5つの部屋に分けて、その歩みをたどる。外国語の翻訳を含め、これまで出版された約300点の著書が一堂に集められたほか、写真、下書き原稿、膨大な量の取材ノートなども展示されている。

 この文学館には、3年前の開館時、内外の市民、団体、企業1万5000件、2億円もの募金が集まった。訪れた人々はすでに15万人を超えた。

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 これほどまでに、人々の心をとらえて放さない三浦文学の魅力はどこにあるのだろうか。

 「基底に、人間の在り方を見つめる深い力が潜んでいて、誰のために書くのか、それが明快であるから」(高野斗志美・同文学館館長)、光世さんも「人間の根本の問題から決して目を背けなかった」と語る。

 私が初めて旭川市の自宅で夫妻にお会いした6年前も、今夏、1人になった光世さんを訪ねた時も、全く同じ謝罪の言葉から始まった。

 「日本人があなた方の国の人たちに本当に申し訳ないことをしました…」。戦前の植民地支配、強制連行、女性を軍の性奴隷にしたことを心からわびる真しな言葉が続く。光世さんは許しを求める心をこう語る。「人は許されるからこうやって生きていると思うのです。許してください、と言われないと人は許すことはできない。神様だって、許して下さい、と言わない人は許すことはできない。お前の罪を許してやる、と言っても私に罪なんかない。許してもらう筋合いはない、という気持ちでは許しにはならない。罪を認めて、まず謝らなければならない」

 しかし、日本社会には「何度謝ればいいんだ」「過去の話はもういい」という風潮がある。これに対し、光世さんは「戦争世代ではないからと言って、知らないとは言えない。知らないというのは、もし、あの時代に生きていたら、酷い目をあわす側で拍手喝采をするのと同じです」と明快に語る。

 この言葉は戦争中、教師だった綾子さんの体験に基づくもの。「綾子は『天皇』の名のもとに戦争へと子供たちを教育し、駆り立てた自らの教師としての責任に苦しみ、悩み、自殺までしようとした。暗い時代の渦に無批判に巻き込まれた自省とキリスト者の立場から、その時代と社会の不条理を真正面から見つめ直して特高警察に虐殺された小林多喜二の母を描いた『母』、そして『銃口』を書き上げたのです」。綾子さんはこう記している。

 「いったい時代とは何なのか。自然にでき上がって行くものなのだろうか。私が育った時代、その時代の流れは、決して自然発生的なものではなかったと思う。時の権力者や、その背後にあって権力を動かすものたちが、強引に1つの流れをつくり、その流れの中に、国民を巻き込んでいったのだと思う。そして、そのために、どれほど多数の人命が奪われ、その運命を狂わされたことか」

 日本の朝鮮支配、中国侵略が強行される暗黒の時代。国内では天皇の神格化、思想統制、軍国主義化の波がひたひたと押し寄せる時代に入っていた。そうした中で、共産党に入党して 「蟹工船」などのプロレタリア文学作品を次々に発表していった多喜二。ついに満州事変の2年後、逮捕され、その日の内に虐殺された。綾子さんは時代と格闘した多喜二の生涯を、母の目を通して情感豊かに描いたのだ。それは、「銃口」で描かれた受難の人々を見つめる深いまなざしと共通するものである。

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  「銃口」は、主人公・竜太の父が、タコ部屋から脱走した労働者金俊明を命懸けで家にかくまって、救出する場面があり、その後、竜太は満州で抗日武装闘争に参加する金俊明に救われるという感動的な結末を迎える。

 光世さんはこう語る。「多喜二を虐殺し、金俊明のように隣国の人々を強制連行したような時代を再びもたらしてはならない。困難な状況の中で竜太と金俊明の互いを深く思いやる人間性、勇気。今、右傾化の風潮が強まりつつある時代にあって、『一人、一人が勇気を持って、発言し、行動しよう』という綾子の祈りを深く汲み取っていただければと思います」。(朴日粉記者)

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