「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―(11)朴鐘鳴

高句麗始原の朝鮮式山城

日本古代の山城は百済から


飛鳥・天平文化時代

 朝鮮式山城の特徴は、まず大きな谷をはさんで稜線沿いに城壁を築いていく。そして、谷間の入り口に堅固な城壁が築かれる。谷間は常時水が流れる水量の豊富なところで、石造りの水門を備えている。山の背後は絶壁に近く防衛には絶好の地理的条件を整えている。つまり、攻撃的に機能するのではない防御方式の城で、城内に食糧などを貯蔵しておき、有事に人々が避難する。こういった山城は高句麗に始まって百済、新羅、伽耶に伝わり、さらに西日本に及んだ。

 日本は百済支援のため、「白村江(はくすきのえ)」で新羅・唐連合軍と戦って破れた翌年(664年)、対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり)をおき、狼煙台を設けて、新羅・唐からの攻撃に備えた。その翌年には、滅亡した百済からの「亡命者」である億礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)とに、大野城を、太宰府の近くに、その南10キロメートルの所に基肄(きし)城の2つの城を築かせた。これらの山城は、城壁、城門、城内の建物群などの構造形式が百済の山城と共通する。大野城と基肄城を典型例として、これに類似する山城を「朝鮮式山城」とよんでいる。

 たとえば、大野城は標高約400メートルの山に周囲6.5キロメートルの城壁を土塁で築いている。3ヵ所の城門と、水門が1ヵ所ある。城内には8ヵ所で約70棟の建物跡が確認されている。これらは倉庫や樓、住居などと考えられる。

 同様な城としてこのほかにも鞠智(きくち)城(熊本県)、鬼ノ城(岡山県)、高安城(大阪府)、金田城(対馬)、怡土(いと)城(福岡県)、屋島城(香川県)などが築かれた。つまり百済の築城技術の導入で築かれたのである。

 日本ではもう1種類の山城――「神籠石(こうごいし)」とよばれる山城がある。北九州・糸島半島の雷山(らいさん)から始まり、四国・讃岐の城山まで西日本にある14ヵ所が知られている。列石で山域を囲ったもので、古くにこの列石内を神域と考えたためこのように呼ばれている。

 神籠石はその立地や地形利用の方法が朝鮮の山城とよく似ており、列石の上に木棚あるいは土塁があることなど、朝鮮との関連が強いものである。「朝鮮式山城」より少し早い時期で、6世紀頃に築かれたものと考えられる。

 佐賀県武雄にあるおつぼ山城では、稜線に1段の石をきっちり組み合わせて根固めし、この上に版築で土をのせる。このような山城はソウル東郊の夢城土城と同じ構築方法である。

 このように6世紀頃から7世紀後半にかけての山城は朝鮮からの移住者によって築かれたもので、神籠石山城は移住者自身が故国での技術に基づいて山城を築き、百済滅亡後の山城は朝鮮国内の混乱のあおりで朝鮮半島からの「亡命者」がその技術を駆使して築いたか、以前からあった「神籠石式山城」を改築したものと考えられる。

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