命ある限り−三浦文学を語り継ぐ(上)

身を削り魂揺さぶる賛歌

人はどのように生きるのか/「神の国」が犯した大罪問う

三浦光世さん

「昭和」という狂気を描いた最後の長編「銃口」

 「着ぶくれて吾が前を行く姿だにしみじみ愛し吾が妻なれば」(光世)

 「病む吾の手を握りつつ眠る夫眠れる顔も優しと思ふ」(綾子)

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 喜びも悲しみも分かち合った40年の歳月。2年前に亡くなった作家の故三浦綾子さんと夫の光世さんの相聞歌である。「人はどのように生きたらいいのか」と問いかけ、長く厳しい冬が続く北海道の風土の中で、キリスト者として神の愛を語り続けた綾子さん。相次ぐ病魔に襲われ、がんになった時でさえ「神が与えてくれたもの」として感謝し、病気と共存 した。そこで生まれた三浦文学とその「人間賛歌」は、作家が去った今も時代を超え読み継がれ、人々の魂を揺さぶり続ける。

 綾子さんのことを書く時、夫の存在を欠かすことはできない。その信仰と文学を支えたのは、夫の光世さん(77)との夫婦愛だった。

 三浦さんの創作活動はまさに病気との闘いだった。肺結核、脊椎カリエスという難病に冒され、24歳から13年間、療養。その後もガン、血小板減少症などの病に悩まされ続け、晩年の10年は筋肉が硬化していくパーキンソン病と闘った。そんな、綾子さんの日常生活と創作活動の傍らには影のように寄り添う光世さんの姿があった。朝起きてから眠るまで、お風呂の世話から、夜中の用便に立つのも含めて、献身的に妻の世話をした光世さん。そして口述筆記。だから綾子さんは「三浦がいなかったらわたしの作品は何ひとつ生まれなかった」と感謝の気持ちを表していた。こうしてできあがった作品は35年にわたり、70冊にのぼる。

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 深い愛で結ばれていた2人。「綾子が今、生きていたなら、語っていただろうことを伝えたい」。妻亡き後、光世さんは三浦文学の語り部として、多忙な日を送っている。その光世さんが怒り、悲しむのは、前の総理の「神の国」発言と小泉首相の靖国神社への公式参拝、戦争を賛美する「教科書」のこと…。

 「綾子は最後の長編小説『銃口』で、天皇の名の下に行われた手段を選ばない人権抑圧と徹底的な思想統制によって、国民を戦争へと駆り立てたファシズムの時代とその犠牲になった人々の悲劇を描きました」と光世さん。この作品は、「昭和」という戦争の時代を背景に、北海道の綴り方教育弾圧事件をモチーフにして、綾子さんの教師時代の体験を重ねて、小学校教師・北森竜太が人間として生き抜く様が描かれている。主人公は、戦時中、ある朝鮮人を強制労働から助け、逆に10数年後、その朝鮮人から命を救われる。権力に抵抗して共に立ち上がる強じんな人間たち。綾子さんはその深い人間性と国際性を物語の中心に据えた。

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 光世さんは語る。「『銃口』には主人公が旧満州の軍隊に招集され、そこで古参兵が語る戦場での自慢話が出てきます」。

 小説の場面はこうだ。「女は分捕品だ。焼いて食おうが、煮て食おうが、遠慮することはない。おれの見るのに、今の兵隊たちはたるんどる。元の皇軍に叩き直さにゃならん」。竜太が「丸腰の農民を、幾人もの兵で刺し殺し、鼻を削ぎ、耳を切り落とす。罪なき妊婦が血祭りにあげられる。老人が薪(まき)のように頭を割られる。…それは陛下の御心に叶うことでありますか」と反問すると、その兵長から聴力を失うほど殴られる。

 90年代に入って、戦場に連れ去られた朝鮮はじめアジアの女性たちは、歳月の空白を埋めるかのように、半世紀以上にわたる重い沈黙を破り、辛い証言を始めた。綾子さんが「銃口」で伝えたかったことこそ「神の国」が犯したあの戦争の真相であり、悲惨さである、と光世さんは語る。

 そういえば辞任した西村真吾元防衛政務次官の野卑な発言を思い出す。「征服とは、その国の男を排除し、征服した国の女を強かんし、自分の子どもを生ませるということです」。こんな男が政治家として大手を振って歩く日本。綾子さんが描いた「昭和の皇軍」の姿は、あれから半世紀経っても日本の隅々に深く浸透し、長らえている。そのことを最後の作品となった「銃口」で綾子さんは身を削るようにして書き上げたのだった。しかし、作品刊行後、綾子さんのもとには、右翼団体から無言の内に機関紙が送りつけられるようになったと言う。そこには 「三浦綾子は非日作家」というらく印が押されていた。(朴日粉記者)

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