日本政府に訪問阻まれた強制連行被害者
崔さんを招くまでは「半田の戦争は終わらない」
中島飛行機半田製作所−調査続ける市民ら
「朝鮮民主主義人民共和国の戦争被害者に思いを馳せ、心に刻む名古屋抗議集会」が開かれた前日の8日、愛知・半田市福祉会館で「『半田への強制連行』を語るつどい」(主催=崔さん歓迎世話人会)が行われた。半田市には解放前、旧日本軍の軍用機を製造する中島飛行機半田製作所があり、強制連行された多くの朝鮮人が働かされていた。こうした事実は、地元の市民団体「半田空襲と戦争を記録する会」(福岡猛志代表)が20年前から調査し、明らかにしてきたもので、今回の集会には実際の被害者である崔★(广だれに異)天さんを朝鮮から招待していた。しかし、崔さんらの訪日は日本政府によって阻まれた。
朝鮮北部から1200人 「記録する会」がまとめ、1997年に半田市から発行された「半田の戦争記録―半田市誌別巻」によると、半田製作所は42年に建設され、敗戦までに海軍の艦上攻撃機と艦上偵察機を1404機も生産した巨大軍需工場であった。 当時、半田製作所には1200余人の朝鮮人が強制連行された。その多くは朝鮮北部の出身で、ほとんどは祖国解放後間もなく帰国している。また270人以上の死者を出した45年7月の半田空襲では、48人の朝鮮人労働者も犠牲になった。 半田市に住む教職員らで81年に結成された「記録する会」。市内の戦争資料を収集して正しく記録し、公式に残すことが活動目的だ。これまで、190人を超える在日同胞と日本人から証言や手記を集め、半田製作所に多くの朝鮮人が強制連行された事実を明らかにしてきた。 92年に結成された愛知県朝鮮人強制連行真相調査団(寺尾光身団長)は竹内弘市長(当時)に対し、「記録する会」の調査をもとに真相究明への協力を要請。市長が公開した半田製作所の厚生年金の被保険者名簿によって朝鮮人強制連行者数が1200人であることが確認された。 半田空襲による朝鮮人犠牲者の数と名前も、竹内市長が公表した殉職者名簿から判明した。「記録する会」は、朝鮮犠牲者も平等に追悼し、半田の戦争の歴史を後世に伝えようと市に寄贈するかたちで95年、雁宿公園内に平和祈念碑を建てた。碑には、日本人とともに48人の朝鮮人犠牲者の名前が刻まれている。 行くまで死ねない さらに昨年、公開された被保険者名簿が手がかりとなって、半田製作所に強制連行され、今も生存する唯一の被害者が朝鮮で奇跡的に見つかった。咸鏡南道に住む崔★(广だれに異)天さん(78)だ。 朝鮮の「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会と、真相調査団のメンバーで朝鮮在住被害者の取材を続けているフォトジャーナリストの伊藤孝司さんらが協力し探し出した。 「記録する会」の佐藤明夫事務局長は崔さんの存在を知らされた時、肩の荷が下りた感じだったという。 朝鮮人強制労働者の存在と犠牲が浮き彫りになっていく過程で、被害者や遺族を市に招き謝罪するまでは、半田の戦争は終わらないという思いを強めていったからだ。 佐藤事務局長は、5月に結成された崔さん歓迎世話人会の事務局長を引き受け、滞在費のカンパを幅広く呼びかけるなど、竹内前市長とともに、崔さんを温かく迎えるための準備を着々と進めてきた。 3月と7月に朝鮮で崔さんと会った伊藤さんらによると、本人も「半田に行くまでは死ぬに死に切れない」と語っていたという。 しかし、思いはかなわなかった。日本政府は崔さんら代表団の入国を不当に阻んだ。佐藤事務局長は、「日本は侵略戦争とともに二度の加害を犯した。恥ずかしいことだ」と憤る。 抗議の場と変した「つどい」には約80人が出席。参加者は、「太平洋戦争中、政府の行為によって被害をうけた朝鮮民衆の心の傷はいやされるどころか、ますます深まる結果となった」と、日本政府の取った行動を批判し、朝・日友好促進と平和を願うアピールを採択した。 「つどい」に参加し、「日本人として直接謝罪できると信じていたのに残念でならない」と語った竹内前市長は、崔さんと直接会うため10月に朝鮮を訪れる予定だ。その際、9日に行われた名古屋抗議集会に参加した日本市民らが布に書いた崔さんへのメッセージを、タペストリーにして届けることにしている。(李賢順記者) ◇ ◇ 抗議集会の名古屋実行委員会では、朝鮮の戦争被害者に車いすを送るためのカンパを募っている。郵便振替口座00850―0―77665 加入者名「なごや実行委員会」 |