ゆがんだ風景−「記憶の戦争」の現場でC
処罰も受けず、表舞台に
靖国神社と戦犯/犠牲になった朝鮮人遺族
東京地裁に提訴して記者会見する旧日本軍の朝鮮人遺族たち
(6月29日、東京地裁で)
第2次世界大戦中、旧日本軍に徴兵された「韓国」人の元軍人・軍属とその遺族252人が日本政府に24億6000万円の損害賠償と靖国神社への合祀(ごうし)の廃止や、戦死者の遺骨の返還などを求める訴訟を、6月29日、東京地裁に起こした。
訴状は韓国併合条約の無効と日本による朝鮮に対する植民地支配の不当性を強く主張。当時の兵站基地化政策、皇民化政策、「従軍慰安婦」、軍属、志願兵などの朝鮮人の動員政策を全面的に暴露しながら、損害賠償、慰謝料、有力紙への謝罪広告掲載を求めている。 原告を代表して、南朝鮮から金幸珍(79)、羅鉄雄(61)、米国から李英燦(64)さんが来日した。父親が合祀されている李さんらが提訴後、記者会見し「警察のトラックで徴用されていった父はそのまま戦場から帰って来なかった。死亡通知書も来なかった。父を奪われ、解放後も辛酸をなめたが、その父が靖国に祭られているのは、屈辱的で納得いかない」と語った。 ◇ ◇ 李さんは現在、米国のペンシルバニア州に住む。解放後、大黒柱の父を失い、一家は離散し、不幸のどん底にあえいだと涙ながらに語った。「父がどこで亡くなったのか、この半世紀、日本政府からは全く知らされていない。父の写真1枚も手元には残っていない。祖国が解放された時は14歳。祖母もすぐ亡くなった。朝鮮戦争が始まり、終わって帰ると弟たちも行方不明になっていた。この悲痛を日本政府は1度でも顧みたことがあるのか」。 金幸珍さんは仁川に住む。19歳で、旧日本軍に徴兵され、ガダルカナルの激戦の中で、九死に一生を得た。「志願兵」とは名ばかりで、太平洋戦争に突入した日本は弾よけのため、植民地の青年らを強制的に駆り出していったのだ。金さんが体験した軍隊の中の民族差別は野蛮そのもの。「ヤキを入れると言っては、肌が擦りむくほど殴られ、便所掃除の後を点検した上等兵から、朝鮮人は便器を舌で舐めてキレイにしろと侮辱され殴打された」。その間のことについて、日本政府からは一片の謝罪も補償もない。 日本政府がこれまで支給した、日本人戦争犠牲者援護費の総額は40兆円。これに対し、朝鮮やアジアの犠牲者への補償は全くなされなかった。それどころか日本では、戦争犯罪人たちが戦後も政治の表舞台で大手を振って生きてきたのだ。 ◇ ◇ 「戦没者遺族」が靖国神社に参拝し、国家による「英霊顕彰」を切望する――。このようなイメージが日本の風景として定着するのは、60年代の半ば頃。それまでは、標語として「戦争の防止」を掲げていたが、それを下ろして「英霊の顕彰」に本格的に乗り出して行く。遺族会が大きく舵を切るうえで、役割を担ったのが、2人の戦争犯罪人であった。 1人が自民党政務調査会長だった賀屋興宣。62年、日本遺族会の4代目会長に就任してから、この流れを不動にした。 賀屋は東条内閣時代の大蔵大臣をつとめ、敗戦後、その責任を追及され、「A級戦犯」として終身禁固刑の判決を受けた。 賀屋は東京裁判の「口供書」で「陛下及び国民に対し責任を痛感した。故陛下より賜った恩寵待遇を辞退し、全くの一野人となり将来再び社会の表面に立たない」と決心した。しかし、舌の根も乾かない55年、赦免されると「野人」とはならず、すぐに政界に復帰したのだ。58年には衆院選(東京3区)に立候補し、トップ当選を果たす。 賀屋と共に靖国の国家護持運動を展開したのが、板垣正参院議員である。96年、南朝鮮の軍奴隷制被害者に対して「カネ(報酬)はもらっていないのか」、「強制的に連れていったという客観的証拠はあるのか」などと何度も侮辱発言を繰り返した人物。 板垣は東京裁判で「A級戦犯」として裁かれ、東条英機らとともに処刑された陸軍大将・板垣征四郎の次男である。敗戦は陸軍少尉として朝鮮北部で迎えた。その後旧ソ連に4年半抑留され、50年に帰国する。その間、「スターリンの伝記を読み共産主義の歴史観に引きつけられた」(「沈黙のファイル」=共同通信刊)板垣は、「皇軍」将校から「左」へと大きく転向して、スターリンに金糸文字を刺繍して感謝文を送る運動の担い手になったりした。帰国後は共産党の支部で党活動に専念した後、離党。72年に日本遺族会事務局長に就任して、賀屋体制を担った。80年からは参院議員になり、日本の再武装などを強硬に主張している。 戦争犯罪人らを免罪した日本と、侵略戦争の犠牲になった朝鮮・アジアの人々のあまりにも深い溝。両者の亀裂をもっと深める小泉首相の靖国神社公式参拝騒動は、日本の政治の不道徳と不正義を満天下にさらし出すものだ。(朴日粉記者) |