語り継ごう20世紀の物語
白南仙さん(74)
被爆の翌年20歳で女性運動に参加悔いのない戦いの人生
70年ぶりに故郷をたずねた白さん | 慶尚南道固城で |
先頃、第4次総聯同胞故郷訪問団に夫と共に参加、麗しい山河と故郷の人々に再会のあいさつを果たした白南仙女性同盟埼玉県本部顧問(74)。4歳でその地を離れてすでに70年の歳月が流れていた。悲しみの海峡。貧しさゆえに兄3人を亡くした故郷・慶尚南道固城。回想は必ず苦痛を伴った。
「70年前、父と母が海峡を渡ったのは、自分の意思ではなかった。総督府に田畑を奪われたために離農離郷せざるをえなかったのだ」 10年年賦という借金に追われた父は、1926年、長野県に出稼ぎへ。あちこちの危険な現場で懸命に働き、家族と債権者の元に送金してきた。母も借金取りに責められ、昼も夜も機織り機の前に座り続けた。その間、兄3人が栄養失調と病で相次いで亡くなった。 「2番目の兄の無念の死が忘れられない。朝鮮を足掛かりに中国侵略を企てた日本は、満州への道路拡張工事を急いでいた。この工事に父の代わりに強制的に勤労動員された兄は、炎天下での重労働で倒れ、その秋に13歳で息を引き取った。栄養もとれず、薬も買えず…」 息子全部を失った父の嘆きは深かった。31年に妻と娘を呼び寄せ、広島で新たな暮らしが始まった。雨が降れば、仕事がなく、貧しい暮らしだったが、父は一人娘を日本の小学校に通わせた。 「父の口癖は、日本の学校に通っても朝鮮語を忘れてはならないということ。学校から帰ってくると、父に必ず朝鮮語の読み書きを習わされた。同胞にはウリマルであいさつしなさいと厳しく言われていた」 第2次世界大戦が勃発し、やがて、両親の予想通り日本の敗色は濃くなっていく。広島に爆弾が投下される45年8月6日。その日が迫っていた。同年1月、19歳で結婚。夫の孫正道さんは、4歳年上だった。夫は徴用を避け、神奈川の親せきの家へ。妻は広島にとどまった。 運命の日――。幸運にも同市南安佐区祇園町の実家にいた。爆心地から5キロほどにあり、直下は免れた。白さんは手紙を書こうと机に座っていた。ピカッと光った瞬間、ドカーンと6メートル位吹き飛ばされ、納屋の方に叩きつけられた。口の中には砂がいっぱい。防空壕に走って行く途中、南の空を見上げると、巨大なきのこ雲が膨らんでいた。家に戻ると天井は吹き飛ばされ、瓶は全部壊れていた。 放射能の恐ろしさも知らないまま、いとこの兄弟を探しに街に出て、残留放射能を浴び続けた。街は地獄図そのものだった。焼けた人、むけた人、狂った人、血を吐く人、目の玉が飛び出た人……凄惨な光景がはてしなく続いていた。2日目、3日目と探し歩き、やっと探し出したいとこの弟は市電の中で死んでいた。結局、兄の方は遺体すら見つからなかったのだ。2年後に原爆で亡くなった人に弔慰金が給付されたが、朝鮮人被爆者にはそれもなかった。「戦争に狩り出す時には、内鮮一体、皇国臣民、同祖同根と都合よい口実を作り出して利用した。戦後は、朝鮮人ということで、補償や見舞金などから除外された。今、世界各国から日本が非難されているのは、その非道への当然の報いなのだ」。 被爆した白さんはその後、1ヵ月ほど病の床に伏した。病床で、近づいてくる死の足音を感じていた。たった一人残された娘を守ろうとする両親の必死の看病と「解放された朝鮮人として、この恨を晴らさねば、死んでも死にきれない」という生への執念がやがて打ち勝った。 健康を回復した頃、金日成将軍の祖国凱旋の報を耳にする。同胞たちの天を衝くほどの喜びを目の当たりにした白さんは夫と共に朝聯活動に身を投じた。47年2月には婦女同盟安佐支部の総務部長に就任。20歳だった。4月には女性同盟広島県本部結成大会に参加、安佐支部を代表して演壇に立った。同年10月、女性同盟中央の結成。 「この出来事がどんなに嬉しかったか。朝鮮女性は植民地支配と儒教社会の二重、三重の差別に苦しんでいた。祖国が解放され、『男女平等権法令』が発布されたというニュースに心揺さぶられ、女性たちも社会の主人公だという自覚が生まれた。女性同盟の結成は、女性たちが自らの運命の決定権を持つという新たな道に踏み出すものだった」 翌48年10月、広島から24時間、汽車に揺られて、東京・京橋公会堂で開かれた女性同盟中央第2回大会に代議員として出席した。「数100人の官憲が会場を包囲して、共和国旗を下ろすよう威嚇したが、参加者は生まれたばかりの祖国の旗を死守し、一歩も引き下がらなかった。あの時の誇り、闘いこそが私の人生を決めた」と感慨深げに語った。 思えば、闘いにつぐ闘いの日々だった。朝鮮学校が閉鎖され、朝聯が激しい弾圧にさらされても、同胞らの民族愛を封殺することはできなかった。広島では当局の厳しい監視をくぐり抜け、朝鮮戦争の最中に広島朝鮮中学校の建設が発議され、開校した。夫は総聯県本部委員長、白さんは女性同盟県本部副委員長として、草創期の広島の運動を支えた。白さんは67年に埼玉に移り、75年から8年間、同県女性同盟委員長の重責を担った。 夫妻は共に被爆手帳を持つ身。妻は手術を繰り返し、夏になると白血球が2500(6000が標準)ほどに下がる。様々な病気を抱え、今も心臓の不整脈におそわれる。祖国に帰国した3人の子供も、両親の浴びた残留放射能の影響を受けて、病弱だが、6人の孫は元気だ。 今度帰郷した際、甥や姪たちが「異郷の地でウリマルを大切にしながら民族を守ってきたおばさんの生き方は素晴らしい」とほめてくれたのが、何より誇らしかった。(朴日粉記者) |