新世紀へ−民族教育を歩く

希望の未来へ、種をまく


連載を終えて

 今年の初めから約半年に渡り、コラム「新世紀へ―民族教育を歩く」を連載してきました。思えば、私が「民族教育」を歩いてきた月日は四半世紀に及びます。なぜなら私自身が、ほかでもないその出身者だからです。始まりは初級部の1年生から。学生として、続いては記者として、私が歩いてきたウリハッキョは、どこも子どもたちの明るい笑顔にあふれていました。その輝きが、いつも次の一歩への活力を与えてくれました。新世紀の民族教育が、これからも同胞らの愛情を養分として、未来の種を健やかに育んでいけることを願ってやみません。

 教育の荒廃が叫ばれる世の中にあって、私たちの民族教育は、それらと一線を画す素晴らしさを持っている。そう確信できる。同時にそれらをより活かすための課題も少なくないと感じる。

 社会学者・宮台真司氏の、次のような分析がある。

 「日本人は長らく家庭、学校、会社など 共同体 に所属することで 承認 を獲得してきた。男に対しては会社が、女に対しては家族が、子供に対しては学校が共同体化され、受け皿となっていたが、これらが成熟社会化(近代成熟期の到来)を迎えて軒並み空洞化してきた。 共同体の空洞化 により 承認の供給不足』に陥っている現代社会が、子供から社会性を奪っている」(著書「自由な新世紀・不自由なあなた」より)

 在日同胞にとって、日本社会が抱える病は無関係ではありえない。すぐ隣で起きている問題は、私たちの問題と確実に地続きなのだ。現在、朝鮮学校の子供たちの笑顔に曇りがなく、その瞳に希望が満ちているとすれば、まさしくそれは、「ウリハッキョ=同胞社会=民族」という揺るぎない共同体と、それらによってもたらされる承認により支えられている。前述の見解を借りるなら、そう結論付けることが可能だろう。

 しかしこれまでも、「日本の学校で起こっていることは20年後にウリハッキョでも起こる」という指摘が、同胞の間で実感としてささやかれていた。急速な現代社会の変化を考慮すれば、それは10年、いや5年後にはやって来るかもしれず、あるいはすでに起こり始めている現実かもしれない。

 宮台氏は、日本社会における「失われた承認の回復」の処方箋として、@共同体の再建、A共同体所属を頼らない承認の創造――の2つを挙げながら、「共同体を昔ながらに再建するのは、歴史的・社会学的条件から見て困難だ」と述べている。だとすれば、私たちにも「共同体所属を頼らない承認の創造」が必要になる時がいずれ来るのではないか? そんな危ぐが頭をもたげる。

 もちろん私たちは、これからも民族という共同体を愛し、その尊厳を守り、その事の尊さを教育を通じて次世代へ伝え続けるだろう。だがそれらに還元されない、子供たちひとりひとりの実存にも承認を与え続ける術を、より確かなものにしていかなければならないはずだ。未来を愛でる心で。(姜和石記者)

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