地名考−故郷の自然と伝統文化

忠清南道−A大徳、扶余、公州

百済の都、伝説多く残る

司空俊

定林寺址 五層石塔 武寧王陵から発掘された遺物

 大徳(テドク)は大田市を囲む農村地帯。儒城温泉が有名だ。50度の温泉が湧き出ており、熱性や神経疾患に効能があるとされる。釜山近くの東莱温泉、温陽温泉を合わせて三大温泉と呼ばれる。

 食蔵山(食器山ともいう、589b)には次のような伝説がある。農民夫婦が老母を養っていた。しかし、一人息子が母のために準備した食物を全部食べてしまう。仕方なく夫婦は息子を山に捨てることにした。息子を埋める穴を掘っていると茶碗が出てきた。おかしなこともあるものと家に持ち帰ったところ、不思議なことにこの器に物を少し入れただけで、いっぱいになってしまう。こうして夫婦は、息子を山に捨てなくても老母に孝行できた。夫婦は老母が世を去った時、この茶碗も元の場所に埋め戻したという。

 扶余(プヨ)は、「慶州は目でみる古都、扶余は心で感じる古都」と言われる。寺址、城址、山城址、陶窯址などが散在するにもかかわらず遺跡が少ないからだ。しかし、内浦平野の中心地で、百済滅亡とともに伝説の多い所である。538年から123年間、百済の首都であり続けた。当時は所夫里郡、一名、泗비(ビ)とも称された。城は盆地中央部の扶蘇山(106b)に築かれ、泗비(ビ)城といった。錦江は公州盆地で1度蛇行し、扶余盆地で再び蛇行する。築城の地点はちょうど、錦江が蛇行する左岸を利用している。

 上古代をみると、以前紹介した京畿道の河南慰礼城も漢江の蛇行を利用している。昔の城はほとんどが、外敵の侵入を防ぐためにこれを利用した。

 百済最後の王都となった扶余では1400年以上経たいまも、時がゆったり流れている。

 新羅、唐の「連合軍」によって百済の都扶余が陥落したとき、3000人の宮女が付近の白馬江(錦江)の絶壁に身を投げたという。その時、落ちた岩が「落花岩」と呼ばれている。

 扶蘇山城跡(敵に攻め込まれたとき、逃げ延びるための城)、百済塔、定林寺、王が毎朝日の出を拝み、国の繁栄を願ったという東側の迎日楼、西側の月を送ったという送月台などが観光地として有名である。

 ここには「仏教伝来謝恩碑」がある。朝鮮が仏教を伝授してくれたことに、日本の有志が感謝して建立したものだ。扶余と日本の飛鳥は姉妹都市。「日本人の心のふるさとは飛鳥、飛鳥のふるさとは扶余」という日本人さえいるほどだ。

 公州(コンジュ)は475年から63年間、百済の都として栄えた。そのときの城が公山城で、公州の東北にある。公州は熊川(熊津)と呼ばれていたが、高麗以後は公州になった。鎮山が公山で、公の発音はコン、熊川の熊の固有語の発音が「コム」。よく似ているので「公州」になったという。

 1932年までは忠清南道の道庁所在地であったが、京釜線の開通後、大田に道庁が移された。

 1971年、公州にある百済25代武寧王(501―522年)の王陵で、盗掘されずにいた金冠など108種、2906点が発見された事は有名な話。銘文の年号から王陵と判明した。公州博物館に百済文化を代表する遺物891点が所蔵されている。

 ここには熊津といわれる船渡し場がある。熊が人間と同居し、子女まで授かったのに、人間の男が行方をくらました。それを嘆いた熊は子を連れて身を投げたという伝説が地名の由来。古跡としては、「春は麻谷、秋は寺甲寺」と麻谷寺がある。
(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員)

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