「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―G朴鐘鳴

渡来人画家たちの「カンバス」

古代日本の壁画古墳


飛鳥・天平文化時代

 古墳の壁画は、複数の絵師が分担してそれぞれ絵を描き、長となる者が絵全体の統一をはかったと考えられる。絵はそれぞれ粉本、型紙をもとに四神図、男女群像などを描き分けたのであるが、当時の画家のほとんどは朝鮮からの渡来人。

 文献上の画家の記録を追ってみる。「日本書紀」雄略7(463)年条には、百済からの渡来人技術集団の記事があって、その中に、「画部因斯羅我(えかきべのいんしらが)」の名前が見える。記録上初見の画家で、百済出身者であったことが確認できる。その後、仏教の伝来とともに僧侶・寺工・瓦博士、そして、画工も日本に渡ってきた。

 推古12(604)年に「はじめて黄文画師(きぶみのえし)、山背(やましろ)画師を定む」(「日本書紀」)とあり、また、「聖徳太子伝暦」ではこのほかに、簀秦(すはだ)画師、河内(かわち)画師、楢(なら)画師をも定めたと伝える。つまり専門的な画家が日本史に登場した。

 黄文(書)氏の祖先は「高麗国人久斯祁(くしき)王」(「新撰姓氏録」)とあって、高句麗の出身である。山背画師・河内画師は百済、簀秦画師・楢画師は新羅出身である。

 推古13(605)年、鞍作鳥(百済出身)が銅および繍の仏像を造った。

 「繍」すなわち、刺繍の仏像を作るためには「下絵」が必要で、ここにも画師の活躍する場があった。

 推古18(610)年、高句麗から彩色や紙・墨の製法に長じた僧・曇徴が渡日した。推古30(622)年、聖徳太子の死を悼んで推古天皇が刺繍である「天寿国繍帳」(残欠が現存する)を作らせたが、その下絵は椋部秦久麻(くらべのはたのくま、新羅)を責任者として東漢末賢(やまとのあやのまけん、百済)・高麗加西溢(こまのかせい、高句麗)・漢奴加己利(あやのぬかごり、百済)の3人が描いている。

 白雉4(653)年、旻(みん)法師(百済出身)の死を悼んで孝徳天皇が画工狛竪部小麻呂(こまのたてべのこまろ、高句麗)・鰕魚戸直(ふなどのあたい、百済)に多数の菩薩像を作らせている。菩薩像を仏師ではなく画工に作らせたということは刺繍と考えられる。

 斉明5(659)年、高麗画師小麻呂の記事が見えるが、前出の狛竪部小麻呂と同一人物であろう。

 天武6(678)年、倭画師音梼(やまとのえしおとかし、百済)に対する授位・授封の記事がある。

 以上からもわかるように、天武朝に至るまでの間に記録に残る画師は、100%朝鮮からの渡来者またはその子孫であった。

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