日朝交流に献身、遥かな思い
作曲家・團伊玖磨氏を悼む−李★(吉へんに吉)雨
平壌の街そぞろ歩き冷麺の食べ比べも
ありし日の團伊玖磨さん | 朝鮮国立交響楽団を指揮する團伊玖磨さん(平壌、85年4月) |
作曲家・團伊玖磨さんが5月17日、訪問先の中国・蘇州で急死された。享年77歳だった。戦後日本を代表する作曲家として、日本の音楽界全体を率いてきた人であり、スケールの大きな芸術家であった。
童謡「ぞうさん」、歌曲「花の町」、交響曲6曲、オペラ「夕鶴」ほか7作品など膨大な作品群はもとより、旅と食通家としてもよく知られ、エッセー「パイプのけむり」は、「アサヒグラフ」が休刊する2000年10月まで36年間続き、1842回も連載された。 團さんの作品に共通しているのは、日本の文化ルーツを朝鮮・中国に見出だし、新しい日本の文化を創造するという姿勢であった。そのため日朝の文化交流を促進し、一日も早く国交を正常化すべきだと語っておられた。 その團さんが初めて平壌を訪問されたのは、1985年4月だった。「第四回四月の春親善芸術祭典」に招かれたときだった。 日本音楽家代表団団長として、日本の各界を率いての訪朝であったが、平壌では自作の「ヴァイオリンとオーケストラのための幻想曲」(ヴァイオリン独奏・小林武史さん)やオペラ「夕鶴」の中のアリア(ソプラノ・中沢桂さん)などが披露されたが、朝鮮国立交響楽団を自ら指揮された。 平壌滞在中、團さんは深い木立ちに囲まれた宿舎の普通江ホテルをいたくお気に召し、毎日付近を散歩しておられた。特に玉流館と清流館の平壌冷麺の食べ比べなど、食通としてもその本分をいかんなく発揮された。(詳しくは「パイプのけむり」1083回〜1084回) 團さんは訪朝以降、日本の政財界、文化人はもとより皇室にいたるまで日朝文化交流の必要性を訴えて来られた。 ◇ ◇ 分断の悲劇を背負う朝鮮民族に、團さんはいつも支援を惜しまなかった。南北統一のためのコンサートを企画し、そのプロデューサーとしてNHKの小野康憲さんと共に訪朝し、91年5月、福井での南北統一コンサートを、日本人主導で初めて実現させた。 また、自身が主宰する「駅コン」(主催・JR東日本)にも、金剛山歌劇団を何回も出演させ、朝鮮の芸術を市民の間に広く紹介して下さった。(日本人が)朝鮮に親しみを持ってほしい、という熱い思いが、團さんの行動の原点にあった。 團さんは豊かで幅広い教養と鋭い洞察力の持ち主でもあった。チマ・チョゴリ事件の時などは「いまだにこんなことをするバカな日本人がいるなんて、本当に恥ずかしい」と怒りをあらわにされていた。 ◇ ◇ 昨年12月、團さんの文化功労賞受賞のお祝いパーティーがあった。歴代の「夕鶴」の主人公をした伊藤京子さんや中沢桂さん、現在の足立さつきさんたちが参加された華やかなものであったが、團さんは1人隅っこでポツンと座っておられた。先立たれた奥様のことを思っておられたのかも知れない。團さんの慰めになればと、私が「3歳の孫の十八番は、朝鮮語の『ぞうさん』です。こんどお聞かせしますよ」と言うと、「えっ、本当かね。朝鮮語で歌うとどんな感じになるんだろうね」と目を輝かせておられたことが印象的だった。 その時も、今度行く時は平壌の万寿台女性重奏団に曲を書いて持って行きたい、朝鮮をテーマにしたオペラも作りたい、とおう盛な創作意欲を示された。私が「今度平壌でチュオタン(ドジョウ汁)が美味しい民俗レストランができましたので、ぜひ案内します」と言うと、大変喜んでおられた。 昨年、日本全国で行われた「DAN YEAR 2000」の締めくくりとしてオペラ「夕鶴」の平壌引っ越し公演が計画されたが、費用の問題、出演者の問題などで延期することになった。私が今年4月の訪朝前にお電話したところ、「来年(2002年)の第20回4月の春親善芸術祭典には、訪朝したい」とおっしゃった。 共和国側が私に語った「團先生はオペラ『夕鶴』の引っ越し公演で来られてもよし、個人的にブラッと遊びに来られてもよし、ぜひいらしてください」との伝言をお伝えするはずだった。それもかなわず遠くへ旅立たれた。残念というほかはない。日朝文化交流に献身された遥かな道のりに心からの感謝を捧げたい。(K・A・C代表) |