ゆがんだ風景−「記憶の戦争」の現場でA

重い荷を背負い生きる

済州島と沖縄/見る夢は虐殺の地獄絵


 4月、1948年の済州島「4.3事件」をテーマにした「韓国」の小説「順伊おばさん」が日本語で翻訳、出版された。作者の玄基榮さんの訪日講演を聞く機会があった。

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 5万人ともいわれる米軍政による済州島民大量殺りくを物語の背景に描く「順伊おばさん」は、50年以上前の麦畑での集団銃殺からただ1人生き残った女性が主人公。その時すでに精神異常を起こしていたのだが、その後30年を生き続け、結局その惨劇の記憶の重さに耐えかねて、2人の子供が埋められている自分の麦畑で命を絶つ。「…彼女はその時、すでに死んでいた人間であった。ただ、30年前のそのくぼみ畑で、99式歩兵銃の銃口から飛び出た弾丸が、30年の紆余曲折の猶予を送り、いまになって、彼女の胸を撃ち抜いただけのことだ」。この小説のクライマックスとも言える一文は、あのおぞましい記憶をよみがえらせた「1発の弾丸」を照射する。

 作家・玄基榮氏は講演の中で、この小説を発表した翌年の80年、保安司に連行され、むごい拷問を受け、その後遺症である心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんだと告白した。当時、4.3事件の大虐殺、光州事件の民衆虐殺の惨劇は、打ち重なるものがあり、その事実を闇から闇へと抹殺しようとする政治風土が存在していたのだ。それらのタブーを打ち破って、人々が長い沈黙の末にあの悲惨な歴史を語り伝え、真相を明らかにしようとしたのは、80年代後半の民主化闘争の広がりによってだったと玄さんは語った。

 詩人・金時鐘さんは「語りの記憶・書物の精神史」(社会評論社)の中で、4.3事件に触れて、こう語っている。

 「これまで日本に来て50年余り、4.3事件との関わりについて、私は表だって発言したことはありません。……なぜ、語らずにきたのか。生理感覚的に、済州島の4.3事件にからんだ記憶が、私の胸の奥底ですっかりぎざぎざのまま凝固してしまって、まずは済州島を思い返したくないという思いが、どうしても働いてしまうんです」

 金さんは虐殺現場を目の当たりにして、日本に来てからもずっと悪夢からは覚めやらない年月が続いたと語る。「谷間で、仰向いて撃たれて死んだ人たちというのは、本当に顔がトマトのように熟れていました。ピンでも立てようものなら、ずるずると血が出るぐらいに、火照っていました」(同上)。金さんの見る夢はいつもその時の地獄絵であり、「もう夜となく昼となく、酒を飲む。飲まないと過ごせない日々だった」と回想する。このままあの世へいきたい、と願っていた人の血の吐くような言葉は重い。

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 東アジアのもう一つの島、沖縄・渡嘉敷島。太平洋戦争末期に起きた日本では唯一、住民を完全に巻き込んだ地上戦が繰り広げられた場所である。「集団自決」など住民の犠牲者は15万人以上といわれている。その惨劇の生き証人たちも、半世紀の歳月を経て、重い記憶の扉を開く。米軍側の従軍記者は「歴史上最も残酷で醜い戦闘」と評したが、「赤ん坊の声が敵に聞こえると居場所が分かる。殺せ」などと日本軍に命令された住民たちは、自分の手で肉親たちを、かまで、棍棒で、石で、殺していったという。語り部の1人・金城重明キリスト教短大の元学長も、自らの手で母、妹、弟を手にかけるという修羅場を体験した。なぜ、このようなことが現実に起こったのか。金城さんはこう証言する。「天皇を拝礼し、天皇賛美の歌をささげ、天皇が侵すべからざる尊い方であることを、骨の髄までたたき込まれておりました」(朝日新聞94年6月27日付)と。渡嘉敷島の「集団自決跡地」・碑文には「生きて捕虜となり辱めを受けるより死して国に殉ずることが国民の本分である、として…死のうと悲壮な決意をした」と記されている。

 ほぼ同時期、2つの島が遭遇した2つの大虐殺。「いつも忘れずにいては気が狂ってしまう」(金城さん・玄基榮さん)ほどの記憶が今でも人々を苦しめ、さいなむ。それでもなお、人は重い荷を背負い、語り、生き続けていかねばならない。「なぜ、語るのか」の問いに、金城さんは「理由は1つしかありません。私のような思いをする子どもが2度と生まれて欲しくないと願うからです」と答えた。

 真相究明と正義の回復へ。封印されてきた過去とタブーを克服する動きが、国境を越えて広がる。(朴日粉記者)

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