ハンセン病訴訟勝利と戦後補償問題(上)−山田昭次
`国家責任あいまいにする動きを阻止、
「金を払うが戦争責任認めぬ」方式打破へ
ハンセン病患者や元患者に対する人権侵害の国家責任を問う訴訟に対して、熊本地裁は去る5月11日、原告の主張を認めて勝訴の判決を下した。熊本地裁は医療の進歩や国際的な医学界の患者隔離否定論の顕著化により、遅くとも1960年には患者の隔離の不必要が明白になったにもかかわらず、隔離を規定した 「らい予防法」を1996年までも存続させて人権を侵害した厚生大臣の責任と、同法を改廃しなかった国会の立法不作為の責任を認定し、国に賠償を命じた。法務省や厚生労働省の官僚は、控訴したうえで和解する方式を主張した。これは判決で認定された国家責任をあいまいにして金を払う方式を意図したものだろう。小泉内閣も控訴をするかしないかで揺れた。しかし内閣は23日に控訴を断念した。戦後の日本国家は戦争責任や植民地支配責任をあいまいにし続けてきた。ハンセン病元患者たちが人権侵害の国家責任を正面から取り上げて告発して勝訴し、かつ裁判で認定された国家責任をあいまいにしようとする動きを阻止した意義は極めて大きい。 ◇ ◇ 1951年9月のサンフランシスコ講和会議は本来なら日本の戦争責任を清算する重大な機会だったが、清算は不十分かつあいまいなものとなった。アメリカが冷戦に対処して日本の戦争責任を清算させるよりも、日本を自己の同盟国としようとしたからである。 1952年4月30日に「戦傷者戦没者遺族等援護法」が公布された。同法第1条には「国家補償の精神」に基づき戦傷病者や戦没者遺族を援護すると、その趣旨が記された。その前月20日の衆議院厚生委員会での吉武恵市厚生大臣の説明によれば、「国家補償の精神」とは、「国家の義務として国家にささげられた犠牲者に対して、国家が補償的な考えを持って援護する」ことである。つまりここでいう「補償」とは軍人・軍属の国家に対する忠誠に報いる給付であって、国民を侵略戦争に動員して死亡や傷病に至らせた国家の責任を認めて謝罪する意味はまったく含まれていなかったのである。この法の第2の問題点は、旧植民地出身の軍人、軍属もしくはその遺族を援護の対象からはずしたことである。 その後、日本国家は金は払うが、戦争責任や植民地支配責任は認めない態度を取るようになった。その最初が1965年12月に成立した「日韓条約」だった。サンフランシスコ平和条約が韓国に認めたのは財産請求権だった。つまり、これは韓国または韓国国民が日本に残した財産や債権の返還を認めたに過ぎず、植民地支配に対する補償と言う意味はなかった。しかし「日韓会談」では韓国側は植民地支配に対する補償の意味をこめて財産請求権を主張した。植民地支配責任を一切認めまいとする日本は、韓国側の請求権要求を放棄させて経済協力方式をとった。日朝国交正常化交渉でも、日本は「日韓条約」方式を踏襲し、日本の植民地支配責任の認知を拒否して経済協力方式を受け入れさせようとしている。 ◇ ◇ 企業の態度も同じである。1997年以降、新日本製鉄、日本鋼管、不二越の3企業は、戦後補償訴訟の韓国人原告と和解して和解金を支払ったが、加害責任は認めなかった。 このような状況が戦後続いてきたことを考えれば、ハンセン病元患者の訴訟が獲得した成果の意義がきわめて大きいことが鮮明となる。しかし、内閣は今回の控訴断念を異例の措置として閉じ込めようとしている。それは「日韓条約」のために償われなかった「韓国人アジア・太平洋戦争犠牲者」とその遺族の戦後補償訴訟への影響を恐れているからだろう。国家の責任と国会の立法不作為責任を追及しているのは、戦後補償訴訟である。今回の訴訟の成果が異例のものとして限定されてしまうのか、金を払うが戦争や植民地支配の国家責任を認めない方式の打破への第一歩になるのか、今その岐路に立っているのではなかろうか。 |